少林寺は中区国富にある臨済宗の寺院。
赤穂藩2代藩主池田輝興が、
※輝興は池田輝政の六男。
赤穂に菩提寺の盛岩寺を建立しますが、
輝興は乱心したとして改易されて、
岡山藩池田宗家の預かりとなります。
やがて輝興は岡山で没していますが、
岡山藩は菩提寺の盛岩寺を移転させ、
この地に少林寺として再興。
輝興の菩提寺として庇護しました。
「本堂」。
入母屋造本瓦葺の本堂。
現在地に移転した当時のもののようです。
かつて寺院には羅漢堂という御堂があり、
五百羅漢が安置されていましたが、
昭和14年に全焼してしまったという。
裏手の山腹には小堀流の庭園があり、
紅葉が色付いていました。
元禄12年(1699)の築庭とのこと。
幕末の岡山藩筆頭家老伊木忠澄は、
隠居後も藩政に関わっており、
動乱期に藩存続の為に立ち回りましたが、
廃藩置県後は少林寺に茶室三猿堂を結び、
茶の湯を楽しんだという。
「従六位伊木三猿齋墓(左)」、
「従六位伊木三猿齋室池田氏墓(右)」。
伊木家14代当主伊木忠澄の墓と、
忠澄の正室清の墓。
忠澄は佐伯土倉家の土倉一静の子で、
筆頭家老伊木忠正の養子となり、
伊木家の家督を相続しました。
長州藩に好意的であったようで、
第一次長州征伐では進軍中止を説き、
第二次長州征伐でも阻止に動いており、
一橋慶喜の実弟である藩主池田茂政とは、
異なる思考や行動をとっていたという。
明治2年には三猿斎と号し、
茶の湯で余生を送ろうとしますが、
岡山県大参事に任命されており、
廃藩置県後にやっと世俗から離れ、
茶の湯を楽しむ事が出来たようです。
明治11年に干拓事業を興しますが、
この資金調達で財産を失ったようで、
収集していた茶の湯の名器を散逸。
明治19年に死去しており、
この少林寺に葬られました。
「泰雲院殿前庫部郎俊翁宗哲大居士(左)」、
「泰禪院殿貞室妙操大姉(右)」。
旗本寄合屋形池田家8代池田政行の墓と、
政行正室奉子の墓。
三猿斎夫婦の墓の隣にあります。
今治藩6代松平定休の六男に生まれ、
屋形池田家当主池田政富の婿養子となり、
養父の隠居に伴い家督を相続。
火事場見廻役等を務めており、
後に寄合肝煎に昇進しました。
屋形池田家は子池田政和の代で幕末を迎え、
孫の池田政樹の頃に維新となっています。
池田家所縁の少林寺には、
他にも池田家のお墓がありましたが、
リサーチ不足でどの系譜か不明でした。
■関連記事■
・岡山県瀬戸内市 伊木家長島墓所
伊木家の歴代墓所のひとつ。
・岡山県岡山市 岡山城
岡山藩池田宗家の居城跡。
・岡山県岡山市 國清寺/池田家墓所
こちらも池田家所縁の寺院。
・岡山県岡山市 曹源寺/正覚谷池田家墓所
岡山藩池田宗家の墓所のひとつ。