長瀞藩米津家は定府大名で、
藩主の御国入りは殆どなかった為、
藩庁であった長瀞陣屋は、
政務を行うだけの簡素なものだったという。
その長瀞陣屋も戊辰戦争で焼失しており、
戦後も藩政は混乱状態が続き、
かろうじて政務は東京で行われていました。
これを打開する為に藩庁を移転する事とし、
明治2年に飛地の大網村へ移転。
仮藩庁を蓮照寺に置いて政務を行い、
陣屋の建設を進めています。
「蓮照寺山門」。
如何にも陣屋門のような山門ですが、
由緒はよくわかりません。
境内は結構広いようですので、
仮藩庁には最適だったかも?
「講堂」。
政務を行ったのはここでしょうか?
当時のものかはわかりません。
本堂へは長い渡り廊下があります。
蓮照寺を出て大網小学校跡へ。
「大網小学校跡」。
移転した大網小学校の跡地。
グランドは駐車場となっています。
背後の山は中世大網城の跡地という。
この場所で陣屋建設が進められましたが、
その後の明治4年2月に、
常陸国の龍ヶ崎村に藩庁を移転。
大網陣屋は破棄されたようですが、
陣屋が完成していたかは不明です。
駐車場を出て本國寺へ。
「千葉縣史蹟 宮谷縣廳跡」。
大網村は村高2622石の巨大な村で、
ひとつの藩に支配されている訳ではなく、
多数の領主に分割されていたようで、
米津家はそのうち1000余石を領有し、
村内でも最大の領主だったようです。
しかしその他は旧幕領や旗本領であった為、
新政府は久留米藩士柴山典を派遣し、
宮谷県としてそれらを統治させました。
※宮谷県設立は大網藩成立より前。
この為に一つの村に県庁と藩庁が置かれて、
これが差し支えがあるという事になり、
大網村の領地が宮谷県に移管。
代わりに常陸国の龍ヶ崎村等が与えられ、
藩庁を龍ヶ崎村に移しています。
この県庁跡碑を訪問した際、
5~6人の家族が写真を撮っていました。
このような碑と写真を撮るとは珍しいなと、
聞いてみると柴山典の子孫家族との事(!)。
初めて来たと言っていましたので、
先祖の功績を辿りに来たのでしょう。
柴山は治水事業などに尽力していますが、
県内の派閥争いで知事を更迭されており、
後に政策も批判されて罪に問われています。
志し半ばとなった県政でしたが、
許された後は判事や宮内省御用掛を務め、
死後は従五位を与えられました。
【大網藩(長瀞藩→大網藩→龍ヶ崎藩)】
藩庁:大網陣屋
藩主家:米津家
分類:1万石、維新立藩
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累代墓。