一宮藩は文政9年(1826)に伊勢国の八田藩が、
上総国の飛地である一宮に陣屋を移し、
一宮藩として成立させた譜代藩。
藩主家の加納家は紀州藩の家臣でしたが、
徳川吉宗が8代将軍に就任した際、
これに随行して幕臣となった家で、
吉宗の信任厚く加増を繰り返し、
1万石に達して諸侯に列しました。
※最終的に1万3000石。
始め陣屋は伊勢国八田に置かれましたが、
上総国等関東圏の知行が大半を占めており、
この為に5代当主(一宮初代)加納久儔が、
陣屋を八田から一宮に移しています。
※とはいえ定府大名であった為、
藩主の国入りは幕末までありません。
一宮陣屋はかつての一宮城跡に建てられ、
その本丸周辺が陣屋地となっています。
「大手門」。
再建された大手門。
一宮城は安房国の大名里見家の支城で、
小田原征伐で本多忠勝によって落とされ、
後に廃城になっていたようです。
普通は城地に陣屋を置く場合、
二ノ丸、三ノ丸に置かれますが、
一宮陣屋は本丸に建てられました。
※一宮城の詳しい資料は存在せず、
本丸跡であるとは断定出来ませんが、
立地から本丸跡であろうとされています。
太平の世に高地で狭い本丸は不便であり、
低地で広い二ノ丸、三ノ丸の方が便利で、
使い勝手が良いのですが、
藩士が政務が行うだけであるならば、
本丸跡に建てるのも不便でなかったのかな?
大手門を越えると坂になっており、
陣屋建物のあった場所へ続きます。
「加納公紀徳碑銘」。
4代藩主(8代当主)加納久宜の紀徳碑。
最後の藩主久宜は一宮町長を務め、
耕地整理や農業振興、名士の別荘誘致、
教育政策等多数の事業を推進し、
一宮町を全国の模範村に発展させました。
その功績を称えて建てられたもので、
死去前年の大正7年に建立されています。
「振武館」。
陣屋建物の建っていた場所にある振武館。
剣道や柔道が行える武道館で、
鉄筋コンクリート製ですが、
一応はお城風になっている模様。
敷地的にそれ程広くないようですので、
それ程立派な陣屋ではなかったでしょう。
裏手より久宜の墓所へ行けますが、
それは別記事と致します。
【一宮藩】
藩庁:一宮陣屋
藩主家:加納家
分類:1万3000石、譜代大名(定府)
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・千葉県長生郡 玉前神社
近くにある上総国一宮。
・千葉県長生郡 加納久宜墓所
一宮藩主加納久宜の墓。