千葉県長生郡 加納久宜墓所

一宮陣屋跡にある振武館の裏側より、
最後の藩主加納久宜の墓所へ行けます。


前一宮町長 貴族院議員
 従二位勲二等 子爵加納久宜公墓
」。
一宮藩4代藩主(8代当主)加納久宜の墓。
久宜は三池(下手渡)藩立花家の出身で、
6代立花種周の五男立花種道の三男でした。
安政地震で両親亡くしており、
藩主となっていた兄立花種恭に引き取られ、
後に一宮藩3代加納久恒の急死により、
末期養子となって家督を相続。
御国入りすると藩兵をフランス式で訓練し、
これを率いて京都へ向かっていますが、
鳥羽伏見の戦いに間に合わなかったようで、
名古屋辺りで旧幕軍の敗戦を聞き、
その後に新政府に恭順しています。
廃藩置県後は大学南校へ入学し、
明治6年には文部省督学局に出仕。
明治9年には兄種恭や立花鑑寛と共に、
家族学校設立大意を提出しました。
文部省退任後は岩手県師範学校初代校長
新潟師範学校校長を務め、
司法に転じて熊谷始審裁判所長
大審院検事東京控訴院検事を歴任。
明治27年には鹿児島県知事に就任し、
荒廃する県政の立て直しに尽力しており、
農業改革特産品奨励インフラ整備
教育振興を積極的に行っています。
明治36年に満期で退官した後は、
東京に戻って教育振興に努めた他、
農業界産業界に多大な影響を与え、
東京競馬会の発足にも尽力しました。
明治45年には一宮町民の熱望により、
一宮町長に就任しており、
耕地整理農業振興、名士の別荘誘致
教育政策等多数の事業を推進し、
一宮町を全国の模範村とさせています。
大正8年に別府での湯治中に死去し、
谷中霊園に葬られていますが、
一宮町民の願いによって分骨され、
町の見下ろせるこの場所に分骨墓を建立。
命日には一宮町をあげて墓参会が行われ、
多くの人々が墓前に献花するとのこと。

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