千葉県夷隅郡 良玄寺/本多忠勝墓所

大多喜町に本多忠勝の墓があります。
本多忠勝は本多平八郎宗家の初代当主で、
大多喜藩の初代藩主。
その子孫は岡崎藩の藩主家となっており、
忠勝より16代続き藩藩置県を迎えました。

忠勝は徳川四天王として徳川家康に仕え、
生涯で57回の戦に参加しましたが、
かすり傷一つ負わなかったとされており、
戦国最強の武将と称されています。

徳川家の関東移封に伴い5万石を与えられ、
大多喜城を居城としていますが、
関ヶ原の戦いの後に桑名藩に移封。
※忠勝の部隊は関ヶ原の戦いにおいて、
 90の首級を挙げる活躍をしています。

大多喜藩は次男本多忠朝に与えられ、
別家を興していましたが、
忠朝は大坂夏の陣で戦死してしまい、
忠勝の長男本多忠政の次男本多政朝が、
忠朝の跡目を相続しました。
後に政朝は龍野藩に転封されており、
その次代本多政勝が宗家を継いだ為、
両家はひとつとなっています。


良玄寺」。
大多喜町にある浄土宗の寺院。
本多忠勝の開基により創建されており、
当初は良信寺と称されましたが、
忠朝死後に良玄寺になったとのこと。


見星院殿蓮譽光信大禪定尼(右)」、
西岸寺殿前中書長譽良信大居士(中央)」、
三光院殿前雲州岸譽良玄大居士(左)」。
忠勝正室於久の方の墓と本多忠勝の墓、
及び本多忠朝の墓。
於久の方は阿知和玄鉄の娘で、
本多忠政、本多忠朝の母である他、
真田信之の正室小松姫の母でもあります。
彼女は忠勝の桑名藩転封後も大多喜に残り、
ここで生涯を終えました。
忠勝は桑名の浄土寺に本墓がありますが、
分骨されて墓が建てられています。
忠朝は大坂冬の陣で酒に酔って不覚を取り、
その挽回の為に夏の陣で先鋒となりますが、
毛利勝永の猛攻によって討ち取られました。
本墓は大阪の一心寺にありますが、
本人の遺言により分骨され、
ここに墓が建てられています。

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