岡崎城は徳川家康の生誕地。
家康は3歳で実母と生き別れており、
6歳で今川義元の人質となり、
父松平広忠は謀反で殺された為、
※諸説アリ。
岡崎城は今川家の支城となっています。
桶狭間の戦いで義元が討たれると、
家康は岡崎城を取り戻して今川家から独立。
後に浜松城に本拠を移すと、
嫡男松平信康に岡崎城を任せます。
しかし信康は織田信長に謀反を疑われ、
母の築山殿と共に自害させられ、
※築山殿は自害を拒んだ為に殺害。
岡崎城は石川数正や本多重次等、
譜代の重臣が城代を務めました。
家康が関東に移封されると、
岡崎城は豊臣家家臣田中吉政に与えられて、
岡崎城は近世城郭に大規模に改修。
城下に東海道が通るようになっています。
吉政は関ヶ原の戦いでは東軍として活躍し、
32万石で柳川に加増転封となり、
代わって本多康重が5万石で入封。
以降は権現様誕生の城として重要視され、
譜代大名が岡崎城に入りました。
城跡は岡崎公園として整備されています。
「大手門」。
平成5年に復元された大手門。
本来は現在の位置より、
北東約200mの位置にあったようです。
「東隅櫓」。
平成22年に復元された東隅櫓。
駐車場隅で見落としてしまいそうですが、
木造で造られた本格的な望楼式二重櫓。
「徳川家康公之像」。
岡崎公園の中央に建つ徳川家康像。
公園内には他にも家康像がありますが、
この像がイメージにぴったりですね。
「本多平八郎忠勝公像」。
公園内は家康の像ばかりですが、
本多忠勝の像もありました。
忠勝は徳川四天王の一人ですが、
岡崎城の城主になった事はありません。
とはいえ最後の藩主家は本多平八郎家で、
忠勝の系譜ではあります。
「しかみ像」。
三方ヶ原の戦い敗戦直後の家康の姿。
三方ヶ原戦役画像を立体化したもので、
一般的にしかみ像の名で知られています。
実は後世に描かれたものだったとか、
長篠の戦いだったとか色々と説があり、
その真意は定かではありませんが、
ポーズ・表情のインパクトは絶大。
最も知られた家康の肖像のひとつですね。
「東照公産湯井」。
家康の産湯を汲んだとされる井戸。
誕生地によくあるタイプの産湯井戸。
「東照公胞衣塚」。
家康出産時の胎盤を埋めたとされる場所。
「岡崎城天守」。
昭和34年にRC製で復興された天守。
今から59年前の建物ですので、
それはそれで古い建物となっています。
良い撮影スポットが見つからず、
色々撮った中の一番マシな一枚。
「龍城神社」。
徳川家康と本多忠勝を祀る神社。
本丸御殿跡に鎮座しています。
岡崎城の築城時に龍神が現れ、
井戸から水を噴出させて天に去ったという。
以降、龍神が本丸で祀られており、
家康誕生時にも龍が現れたとされています。
本丸には東照宮が建てられましたが、
本多平八郎家が岡崎藩主となると、
藩祖忠勝を祀る映世神社が本丸に建てられ、
東照宮は三ノ丸に遷座されました。
明治に入って東照宮と映世神社が合祀され、
数度の改称の末に龍城神社となっています。
幕末の岡崎藩主の5代本多忠民は、
安政期に京都所司代となっており、
諸問題で幕府と朝廷の間を奔走しています。
元治元年には老中首座にもなっており、
譜代大名として佐幕の方針を取りますが、
鳥羽伏見の戦い後に新政府に恭順。
しかし多くの藩士が脱藩しており、
戊辰戦争を各所で戦っています。
【岡崎藩】
藩庁:岡崎城
藩主家:本多平八郎宗家
分類:5万石、譜代大名
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