千葉県夷隅郡 大多喜城跡

大多喜城大多喜藩の藩庁。
大永元年(1521)に真里谷信清が築城し、
小田喜城と称したことに始まります。
信清の次代真里谷朝信は、
里見家家臣正木時茂によって攻められ、
小田喜城を奪われており、
以後は正木信茂正木憲時と続きますが、
憲時が里見家の内紛で殺害されると、
里見家が支城として代官を派遣。
後に豊臣秀吉の命により上総国が、
里見家から没収されると、
上総国は徳川家康に与えられ、
家臣の本多忠勝が同地に10万石で入り、
小田喜城を改修してその居城とし、
城名を大多喜城と改めています。


県立中央博物館大多喜城分館」。
本丸跡に建てられた模擬天守
内部は博物館となっていますが、
訪問時は改修の為に閉館中でした。
大多喜城の天守については諸説あり、
江戸後期焼失したとか、
そのそも存在していなかったとか、
粗末な建物があったとか云われます。
大多喜藩自体も最初の本多家以外は、
1~3万石程度の小藩となっており、
天守の維持は難しかったでしょう。


二ノ丸御殿跡」。
本丸跡から二ノ丸跡を望む。
二ノ丸跡は現在大多喜高校となっており、
校舎のある場所に御殿があったという。

本丸跡を下りて二ノ丸跡の高校敷地へ。

薬医門」。
大多喜城唯一の木造建造物遺構で、
二ノ丸御殿の門であったもの。
廃藩置県後に城が解体された際、
民間に払い下げられていましたが、
大正15年に校門として寄贈されており、
後の新校舎建築時に解体して保存され、
その後に復元されたようです。


大井戸」。
大多喜高校駐車場内にある大井戸
本多忠勝の頃に掘られたとされ、
周囲17m深さ20mと巨大なもので、
最も大きな井戸のひとつとされています。
当時は8個の滑車と16個のつるべ桶があり、
水が尽きる事なく湧き出る事から、
底知らずの井戸と呼ばれたという。

大多喜藩は本多忠勝の桑名藩転封後、
次男の本多忠朝に5万石で与えられますが、
忠朝は大坂夏の陣で戦死してしまいます。
家督は甥の本多政朝が継ぎますが、
後に政朝は龍野藩に移封。
代わって鳩ヶ谷藩より阿部正次が入り、
正次が小田原藩へ転じた為に一時廃藩。
青山忠俊によって再び立藩されますが、
忠俊は後に改易となっており、
大多喜藩はまたもや廃藩となります。
次に阿部正能、続いて阿部正春が入った後、
稲垣重富が入封されますが、
領地が狭すぎるといる理由で、
僅か21日で烏山藩に移動しており、
これに代わって松平正久が入り、
目まぐるしく変化した藩主家が定着。
正久の大河内松平宗家が9代続きました。

幕末の大喜多藩は幕府を補佐し、
9代藩主松平正質奏者番若年寄を経て、
老中格へと進んでおり、
鳥羽伏見の戦いでは旧幕軍総督となり、
新政府軍と戦っています。
しかしこれに敗れた為に賊軍となり、
官位と所領を没収されて大多喜藩は廃藩。
領地は佐倉藩吉田藩に管理されますが、
敗戦後の恭順が評価されて放免され、
領地と官位が復されており、
僅かの間ながら藩は復帰していますが、
廃藩置県により大多喜藩は消滅しました。

結城藩
藩庁:大多喜城
藩主家:大河内松平宗家
分類:2万石、譜代大名

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