高崎は中山道と三国街道の交わる交通の要所で、
北条氏の滅亡後に徳川家康が江戸に入った際には、
徳川四天王のひとり井伊直政を12万石で配して、
北方の守りを固めさせました。
直政は箕輪城から、街道の交わる和田に拠点を移し、
近世城郭を築いて地名も高崎に改めます。
直政ははじめ松ヶ崎と命名するつもりでしたが、
「松は枯れることがあるが、高さには限りがない」
という進言により、高崎という名にしたとされています。
こうして高崎の発展が始まるのですが、
直政は石田光成の居城であった佐和山に移封となり、
わずか2年で高崎を去りました。
※その後、井伊家は拠点を佐和山から彦根に移して、
幕末まで彦根藩を発展させています。
その後、酒井忠次の長男酒井家次が5万石で入り、
戸田松平家、藤井松平家と、領主が入れ替わり、
安藤重信が入って3代続いた末に、
安藤家は備中松山藩へ加増転封となり、
代わって大河内松平家の松平輝貞が入ります。
一時、6代将軍徳川家宣に疎んじられ、
越後村上藩に懲罰的転封となりました、
8代将軍徳川吉宗の頃に再び高崎に戻り、
幕末まで大河内松平家が治めました。
※松平輝貞の村上移転後は、間部詮房が入封。
高崎へ戻された際には、間部は村上に移封されました。
藩庁の高崎城は、本丸付近は発展して面影が無いものの、
三ノ丸土塁と水堀が残されています。
「三ノ丸出枡形」。
駅より歩いて高崎城へ向かうと最初に現れる遺構で、
直線状の三ノ丸水堀の中で、唯一凸状になった場所。
「三ノ丸水堀」。
先ほどの出枡形以外は、まっすぐ直線状に伸びた水堀。
土塁の上は遊歩道になっていて歩くことが出来ます。
「乾櫓」。
追手門跡には、本丸にあった乾櫓が移築されています。
この乾櫓は、本丸の戌亥(北西)の方角にあった櫓で、
維新後の廃城の際に、農家に払い下げられていたものを、
昭和51年に再移築したもので、
農家では納屋として使用されていました。
「東門」。
乾櫓裏手には、出枡形隣にあった東門が移築されています。
東門は城内への通用門で、昼間は常時開けられていました。
これも廃城時に払い下げられていたようで、
昭和55年に再移築されたもの。
「歩兵第十五連隊址」碑。
明治4年の廃城後、高崎城跡は陸軍省の所管となり、
昭和20年の終戦まで陸軍兵営が置かれていました。
この兵舎には歩兵第十五連隊が駐屯し、
高崎は十五連隊の街とも呼ばれています。
本丸などの城の中心部に遺構が無いのは、
更地に整備されて兵舎などが建てられ、
近代的な軍事施設となったからでしょう。
「史跡 高崎城址」碑。
追手門跡北側にあります。
本丸のあった付近の現在の様子ですが、
かつて城があったとはとても思えませんね。
「石垣水路と石樋」。
中央図書館敷地より出土した石垣水路と石樋跡で、
本丸掘と二の丸堀を結んでいた石垣水路とのこと。
数少ない高崎城内部の遺構です。
幕末の高崎藩藩主家は、前記したように大河内松平家。
天狗党の乱が勃発すると、幕命により兵を派遣して、
下仁田で天狗党と衝突し、36名の死者を出しました。
この敗北によって兵制改革が必要と感じたのか、
農兵を募り「強心隊」を結成しています。
飛地の越後一ノ木戸には陣屋が置かれていましたが、
長岡藩に隣接していたことから、一ノ木戸陣屋では、
独自で奥羽越列藩同盟に加担することとなり、
鳥羽伏見の戦い後に恭順した本藩とは別行動を取ります。
同盟軍として北越戦争を戦った一ノ木戸の高崎藩士らは、
越後に出陣した高崎藩兵との戦闘を避け、
会津に赴いて会津戦争に参加しました。
最後の藩主松平輝声は、甲府城代、奏者番、陸軍奉行並と、
幕府要職を歴任していますが、新政府に恭順した際は、
松平姓を捨てて大河内を名乗っています。
明治2年には八公二民の年貢と凶作に耐えかねた領民達が、
「高崎5万石騒動」と呼ばれる一揆を起こします。
約4000人の農民が高崎城下に押し寄せましたが、
訴えは聞き入れられず首謀者は捕えられて斬首。
領民達の廃藩置県まで適えられることはありませんでした。
【高崎藩】
藩庁:高崎城
藩主家:信興流大河内松平家
分類:5万2000石、譜代大名
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