唐津の男装の女志士奥村五百子。
父了寛の連絡役として諸国を旅し、
深編笠に義経袴、草履履きに朱鞘の大小で、
大坂、長州、対馬、福岡と奔走しました。
五百子の実家高徳寺は、
唐津駅北側の歓楽街にあります。
「高徳寺」。
高徳寺は歓楽街にあるだけに、
スナックビルの入口と見まがう鐘楼門。
ホステスが立っていても違和感なさそうです。
本堂は至って普通の日本建築でした。
高徳寺は釜山海という珍しい山号を持ち、
これは豊臣秀吉から授かったらしい。
織田信長の近従奥村掃部介と称する武士が、
信長死後に本願寺教如に帰依して浄信と称し、
支那へ真宗の布教を行うために釜山に渡航。
文禄の役後に高徳寺の開いて現在に至ります。
「奥村五百子誕生の地」。
鐘楼門の脇にある誕生地を示す石碑。
五百子は住職の奥村了寛の娘として誕生。
父了寛は摂関家二条斉敬の隠子寛齊の子で、
出家して高徳寺の住職となった人物。
この父の影響から兄円心と共に、
尊皇攘夷思想に目覚めたようです。
「正七位奥村五百子墓」。
本堂脇にある奥村五百子の墓。
唐津藩は譜代藩で佐幕派に属しており、
父や兄の長州藩に対する期待は大きく、
二条家の名で激励の為に五百子を単身で派遣。
長州藩筆頭家老宍戸親基の母は、
了寛の実姉(実妹?)であったため、
親基を訪ねて了寛の密書を渡したとされます。
高杉晋作と意気投合した話もありますが、
信憑性は低く2人を繋ぐ文献などは無い。
帰国後も対馬藩や福岡藩などに訪問し、
了寛らの書状を届けたということです。
福岡で野村望東尼にも会っており、
晋作との接点は全くのゼロではないようです。
その後福成寺の住職大友法忍に嫁ぎ、
明治維新を平穏に迎えますが、
父や夫の死が相次いで高徳寺に戻ります。
兄円心の連絡役として各地を奔走中、
水戸で出会った鯉渕彦五郎と恋に落ち、
周りの反対を押し切って駆け落ち同然で同居。
二女一男を設けつつも生活は困窮し、
志士気取りで働かない夫に愛想を尽かし、
離縁したようです。
以後は子育ての傍ら唐津の発展に尽くし、
兄と共に朝鮮半島に渡って実業学校を創設。
北清事変の慰問団として北京に赴いた際、
戦死者遺族への救済が必要であると考え、
小笠原長生、近衛篤麿らの支援で、
愛国婦人会を創設しています。
日露戦争の際には病身を押して激戦地を慰問。
明治40年に死去しました。
「奥村五百子女史」像。
大手門口交差点にある奥村五百子の銅像で、
昭和34年に唐津市婦人連絡会によって建立。
これは二代目の五百子像で、
戦前にも銅像が建っていましたが、
金属回収法の犠牲となって徹去されています。
愛国婦人会を創設した五百子は、
全国を遊説して婦人会員を増やしましたが、
その卓越した周旋能力は、
幕末期に培われたものかもしれませんね。
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