群馬県甘楽郡 小幡陣屋跡

上信電鉄上州福島駅で下車し、
貸自転車を借りて小幡陣屋跡へ。
自転車が借りられるのは便利ですね。
駅から4kmの道のり。
県道197号線をまっすぐ南に進みます。


雄川堰」。
甘楽郡を流れる雄川の上流より取水して、
城下町に流れるように開削された用水路
川沿いの桜並木は江戸初期のものらしく、
養蚕農家群と並んだその景観は、
とても魅力的なものです。
昭和名水百選にも選ばれているとのこと。


小幡の中小路」。
城下の中心に位置する中小路。
小路は綺麗に整備されており、
藩政当時を偲ばせます。


高橋家住宅」。
勘定奉行を務めていた高橋家の屋敷。
小幡の武家屋敷の中で、
昔の様子を最も残しているのがこの高橋家。
屋敷や庭園、石垣等が当時のまま残され、
貴重な遺構となっています。


松平家大奥」。
奥方と何人かの腰元が住んでいた屋敷。
陣屋外に設けられた奥方の屋敷を、
大奥と呼んで良いのかは謎です。
ペリー来航の際には、
江戸城大奥の女官15~6名を、
この屋敷に疎開させたとの事。


喰い違い郭」。
有事の際の防衛の為に造られたものとされ、
また下級武士が上級武士を避けるために、
使われたともされます。


中門」。
中小路より御殿前通りに入り、
突き当りが陣屋入口となっています。
ここから先は本来有料なのですが、
たまたま無料開放していました。


拾九間長屋」。
藩邸の職務従事者の居住した拾九間長屋
最近復元されたようで、
内部は資料館や事務所となっています。


土塀と空堀」。
陣屋内には土塀と空堀が復元されており、
御殿を囲むように配置されています。
空堀は深く掘られていたのでしょうが、
安全の為か窪み程度しかありません。


御殿跡」。
平面に部屋割りがされており、
部屋の配置がわかるようになってます。
小幡藩松平家は城主格大名ですので、
小幡城と呼ばれる事もありますが、
その構造は陣屋形式のものです。


楽山園」。
御殿跡の隣にある国の名勝指定の大名庭園
織田信雄築庭の池泉回遊式庭園で、
名称の由来は論語の一節とのこと。
織田家に代わって奥平松平家が入封。
領地には当たり外れがありまが、
藩庁にも当たり外れがあるようです。
その意味では楽山園を有する小幡陣屋は、
大当りではないでしょうか?
写真では伝わらないかもしれませんが、
素晴らしい景観でした。

小幡藩織田家7代藩主織田信邦は、
家老吉田玄蕃と共に改革を進めますが、
その吉田と対立する松原郡太夫らは、
吉田が山県大弐と陰謀を企てていると密告。
信邦は幕府に報告せず吉田らを処罰し、
その対応を不適切と咎められて、
信邦は強制隠居させられてしまい、
高畠藩に懲罰的な移封となりました。

代わって入ったのが忠尚流奥平松平家
3代藩主松平忠恵の頃、
江戸中屋敷に鼠小僧次郎吉が侵入し、
これを捕縛するという功績を挙げますが、
藩の財政は困窮していたという。
ちなみに彰義隊の頭取天野八郎は、
小幡藩領磐戸村の出身。
名主の大井田吉五郎の次男として生まれ、
与力の養子となりましたが離縁となって、
旗本天野氏を勝手に自称したという。
つまり本当は幕臣ではなかったのですが、
何故か彰義隊頭取となった不思議な人物。

幕末の藩主は4代松平忠恕
寺社奉行奏者番を兼任しています。
天狗党の乱では天狗党を迎え撃つ為、
高崎藩兵と共に出陣しますが、
戦ったのは高崎藩兵のみで、
小幡藩兵は戦闘に参加しませんでした。
後の鳥羽伏見の戦い後に新政府に恭順。
戊辰戦争に104名を出陣させ2名が戦死。
また領内で発生した世直し一揆では、
一揆勢の要求を呑んでおり、
財政的に大損害を被っています。

【小幡藩】
藩庁:小幡陣屋
藩主家:忠尚流奥平松平家
分類:2万石、譜代大名

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