七日市藩は加賀藩の支藩で1万石の小藩でした。
加賀藩が徳川家康に謀反の嫌疑をかけられた際、
前田利家亡き後に芳春院と名乗っていたまつは、
自ら人質として江戸に赴いています。
その時に同じく人質となったのが、
利家の五男であった前田俊孝。
母はまつではなく側室明運院でしたが、
まつの許で育てられていました。
俊孝は大坂の陣で徳川秀忠に属して戦功を挙げ、
1万石が与えられて七日市藩を立藩しています。
所領は加賀藩ではなく幕府から与えられたので、
正確には加賀藩の支藩ではないのですが、
加賀藩の財政的援助を受けたり、
宗家と分家の関係を維持しており、
支藩としても差し支えないでしょう。
「群馬県立富岡高等学校」。
七日市陣屋跡は群馬県立富岡高等学校の敷地。
現在も敷地内に陣屋の遺構が残されてます。
「御殿」。
御殿の正面玄関部分と書院を再構築したもの。
御殿自体は、現在の3倍の広さがあったらしい。
現在は玄関が北向きになっていますが、
当時は東向きに玄関が建てられていたようです。
「御殿山」。
土塁の一部と櫓台が残されており、
御殿山と通称される場所。
敷地の外側からは、櫓台の石垣が見えます。
「陸軍中野学校終焉之地」碑。
諜報や防諜、宣伝など、
秘密戦工作員を育成した陸軍中野学校。
要はスパイ学校なんですが、
ゲリラ戦指導者も育成していたようです。
空襲を避けて東京中野からここに疎開し、
そのまま終戦となった為に、
この場所を終焉の地とした模様。
「中門(黒門)」。
現在は学校の東門として利用されるこの門は、
当時は中門として別の場所にあったらしい。
通称「黒門」と呼ばれていますが、
これは東京大学「赤門」に因んで呼ばれたもの。
東大の赤門は加賀藩上屋敷の御守殿門ですので、
前田家つながりといったところでしょうか?
七日市藩は1万石の小藩。
9代藩主前田利以は隠居後も贅沢を続けており、
豪華な別邸を建設して財政を逼迫させました。
七日市藩は加賀藩の援助を得て成り立っており、
この状況に加賀藩は怒って援助を打ち切ります。
そうして藩財政はさらに困窮し、
これを見かねた須藤岡之進という藩士が、
遺書を書いて妻と共に切腹。
この事が加賀藩にも伝わった事により、
両藩の仲は修復に向かいます。
10代藩主前田利和は聡明な藩主だったようで、
「生育講」を創設して家中から6万両を徴収し、
妊娠した女性や4人以上子供のいる家族、
幼児のいる家族に手当金などを与える制度で、
今でいう育児手当のようなものでした。
また倹約令など財政再建にも取り組んでいます。
しかし先代前田利以の浪費を止める事は出来ず、
利以が死まで財政は好転しなかったという。
11代藩主前田利豁の代で幕末を迎えます。
陣屋の火災や大阪城番での出費や凶作など、
やはり加賀藩の援助に頼る事になりました。
天狗党の乱の鎮圧に兵を出していますが、
七日市藩の兵力では進軍を止める事が出来ず、
領内を通過させざるを得ませんでしたが、
これを潔しとしない七日市藩士横尾鬼角は、
領内を通さず間道に案内して面目を守ります。
しかし横尾鬼角は後に芝塚助八の派閥に参加。
利豁を廃して幼君を擁立しようと企んだとされ、
これが加賀藩に露見して失脚しており、
士籍を剥奪されてました。
七日市藩は、維新後にいち早く新政府に恭順。
110名の藩兵を会津に派遣しています。
また頻発する世直し一揆は七日市領でも発生。
一揆勢の要求を受け入れて難を逃れました。
【七日市藩】
藩庁:七日市陣屋
藩主家:利孝流前田家
分類:1万石、外様大名
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