久留里藩黒田家は福岡藩黒田家とは別系で、
三河国八名郡黒田郷を本拠とした一族。
戦国末期の当主大橘定綱を祖とし、
子の大橋広綱が黒田姓に改称したという。
広綱の子黒田久綱は駿河今川家に属し、
久綱の子黒田光綱の頃に三河松平家に仕え、
その子黒田直綱が徳川家康の小姓となり、
大坂の陣に出陣しています。
直綱はその功で4000石を与えられますが、
僅か25歳で病死してしまい、
家督は養子の黒田用綱が相続。
用綱は徳川綱吉の館林藩襲封の際、
附家老として側近となっており、
次代黒田直邦が綱吉の5代将軍就任に伴い、
小姓として召し抱えられました。
直邦は綱吉の寵愛を受け、
元禄13年(1700)に1万石で下館藩を立藩。
綱吉死去後も6代徳川家宣、7代徳川家継、
8代徳川吉宗に仕えており、
下館藩から沼田藩に加増転封となり、
3万石を領するまでになっています。
次代黒田直純は久留里藩へと転封となり、
以後久留里藩黒田家は9代続きました。
「真勝寺」。
君津市久留里市場にある曹洞宗の寺院で、
天文9年(1540)に勝真勝により創建。
※勝(武田)真勝はかつての久留里城城主。
この寺に9代藩主黒田直養の墓があります。
歴代墓所は埼玉県にある能仁寺にあり、
初代藩主(2代当主)直純から、
8代藩主(9代当主)黒田直和の墓が、
建てられているという。
※藩祖(初代当主)直邦の墓は多峯主山山頂。
「隆祥院殿徳誠知見直養大居士(中央)」。
9代藩主(10代当主)黒田直養の墓。
※右の雲祥院殿の墓は誰の墓か不明。
たぶん藩主家の人物と思われます。
直養の父黒田直古かも??
直養は5代藩主黒田直方の七男直古の子で、
長男ながら妾腹であったという。
文久2年に8代藩主直和の養子となり、
慶応2年に直和の隠居に伴い家督を相続。
久留里藩は譜代であったた為に佐幕寄りで、
鳥羽伏見敗戦後に徳川慶喜が謹慎した際も、
寛永寺で高田藩とこれを警護しています。
福田八郎左衛門が率いる撤兵隊が、
慶応4年4月に江戸を脱出し、
久留里北側の真里谷に駐屯した際には、
派兵の要請に応じようとしますが、
新政府軍の侵攻で撤兵隊が逃走した為、
方針を転換して恭順。
廃藩置県後の明治10年に隠居し、
離籍して久留里で余生を送り、
大正8年に死去しました。
歴代墓所に墓が無いのは離籍の為でしょう。
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