東京都文京区 麟祥院

麟祥院は文京区湯島の臨済宗妙心寺派寺院。
春日局の隠棲所として創建し、
境内地1万坪と寺領300石を拝領されました。
麟祥院は春日局の墓所として有名で、
多くの参拝客が訪れるとのこと。


春日局之像」。
麟祥院前ポケットパークにある春日局の銅像。
平成元年の大河ドラマ春日局を記念し、
礫川公園内に建立されたもので、
令和元年にここに移転されています。


庫裡」。
実は訪問当日はなんと春日忌
イベント中で本堂の写真は撮影出来ず。
仕方ないので庫裡だけでもと撮影。


春日局墓」。
春日局の墓。
春日局は本名を於福といったようで、
明智光秀の家臣斎藤利三の娘に生まれます。
父利三は山崎の合戦に敗れて自刃しており、
福は母方の実家である稲葉家に引取られ、
三条西家に奉公に出されました。
後に稲葉重通の養女となって、
稲葉正成に嫁いでいます。
正成は主君小早川秀秋を寝返らせ、
関ヶ原での西軍勝利に貢献しましたが、
この事で秀秋から疎まれて美濃で蟄居。
後に秀秋が死去して小早川家が断絶すると、
浪人となってしまいました。
正成と於福は京都で暮らしていましたが、
将軍徳川秀忠の子竹千代乳母が募集され、
これに於福が志願して採用。
於福は正成と離縁して江戸へ向かい、
※離縁の理由には諸説あり。
竹千代の乳母として無事に育て上げて、
後に竹千代は3代将軍徳川家光となります。
於福は大奥将軍様御局として取り仕切り、
役職や法度等を整備して、
老中を越える権力を有したという。
家光の疱瘡治癒祈願で伊勢参拝した際は、
そのまま上洛してて御所へ拝謁し
後水尾天皇従三位春日局の名を与えられ、
再上洛の際には従二位に昇叙しており、
平時子北条政子に比肩。
離縁した元夫の稲葉正成は大名となり、
実子稲葉正勝が継いで続き、
淀藩稲葉家として廃藩置県まで続きました。
春日局は晩年麟祥院(当時は天沢寺)に隠居し、
寛永20年に死去。

次回より麟祥院の大名墓を参拝します。

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