京都府京都市 淀城跡

宇治川桂川に挟まれた中洲で、
東海道の宿場として栄えた要所でした。

淀城跡より北500mに旧淀城跡があり、
正確な築城年数はわかっていませんが、
要所ゆえに応仁の乱から戦国時代に掛け、
幾多の武将が攻防を繰り広げたようで、
山崎の戦いでも明智光秀が使用しています。

後に豊臣秀長が荒れ果てた城を改修して、
豊臣秀吉の側室茶々の産所とし、
茶々はこの事から淀殿と呼ばれましたが、
淀殿がこの城で生んだ鶴松は幼くして死去。
秀吉の後継者は甥の豊臣秀次となりました。
その後に淀殿が大坂城で豊臣秀頼を出産。
秀次と秀吉の関係が悪化し、
秀次は廃嫡のうえ切腹となり、
淀城代であった木村重茲も連座して切腹。
淀城は廃城となっています。

関ケ原の戦いを経て徳川幕府が開かれた後、
譜代松平定綱が3万5千石で入封し、
新たに淀城が別の場所に築城。
これが現在の淀城跡で、
便宜上それまでの淀城は、
淀古城」と呼ばれています。

淀の水車」。
京阪淀駅南東側にある水車模型
淀城の淀川沿いの石垣には、
水車が2つ設置されていたようで、
淀の川瀬の水車
 だれを待つやらくるくると
と、当時の人々に唄われました。
江戸参府で淀を通過した蘭医ケンペルは、
淀の町は美しく、水車小屋が、
 その城の一部になっている」と記し、
また朝鮮通信使も水車の事を伝えています。
当時の人々は淀城=水車だったようですね。


稲葉神社」。
淀藩稲葉家の藩祖稲葉正成を祀る神社。
正成は明智光秀の重臣斎藤利三の娘婿で、
秀吉に仕え小早川秀秋の家老になりました。
関ヶ原の戦いでは秀秋を寝返らせますが、
秀秋の死で浪人となります。
後に家康が嫡孫竹千代(家光)の乳母を募集。
これに妻の福が志願して採用され福と離縁。
正成は美濃十七条に1万石を与えられ、
後に松平忠昌附家老となり、
忠昌が福井藩3代藩主となる際、
それに従わずに出奔していますが、
再び召し出されて真岡藩2万石を受領。
浪人から2度も大名に取り立てられたのは、
離縁した元妻の福が春日局となり、
離縁後も繋がっていたからとされます。
淀藩稲葉家が淀藩主となったのは、
正成から5代後でした。


稲葉神社本殿」。
社務所のような建物は荒れ果てていますが、
本殿は小さいながら体裁は保っています。
藩主を祀る神社は他でも多く見られ、
それらと比べると見劣りしてしまい、
10万石の藩主家を祀る社とは思えません。
隣接の與杼神社の規模と比べてしまいます。


天守台」と「淀城跡公園」。
天気が悪かった事もあるかもしれませんが、
なんだか荒れた印象を受けます。
昨今の城跡ブームで全国各地の城跡は、
再整備されているところが多いのですが、
公園化した城跡でこれ程荒れたのは珍しい。
淀城跡公園再整備構想が、
財政難で20年近く進んでいないようです。


天守台も登れなくなっていました。
天守や水車の復元等、
とても良い計画とは思いますが、
大風呂敷を広げすぎて、
財政難で実現が困難であるならば、
せめて補修くらいしたらどうかと思う。


淀城之故址」「淀小橋旧跡」、
唐人雁木旧跡」碑。
天守台脇に並べられた3つの石碑。
新たに建てられた石碑に変えられた為、
用済みになってここに集められたようです。
淀小橋は旧宇治川に架けられた橋で、
千両松の戦いで敗れた幕府軍は、
淀城への入城を拒まれた為、
腹いせに淀小橋を焼き払っています。
唐人雁木は朝鮮通信使が使用した桟橋で、
大坂から淀川を上って上陸する場所に、
設けられていました。


淀城址」碑。
公園内にある石碑。
淀藩は10万2千石という大領でしたが、
その所領は分散していました。
本拠の山城の所領は2万石程度で、
他は、和泉下総などに分かれ、
藩の経営は不安定であったようです。
譜代で幕政に関与していた藩主に代わり、
城代家老田辺家が執政していました。


田邊治之助君記念碑」。
鳥羽伏見の戦いで敗れ敗走する際、
旧幕府軍は淀城の開門を迫りますが、
淀城は城門を閉ざして入城を拒否します。
仕方なく旧幕府軍は橋本まで退却。
その際に一部が隙をついて侵入したようで、
大手門の守っていた物頭役田辺治之助は、
その責任を取って自刃しました。


淀城の内堀。やはり荒れている様子。
事前にネットで調べたところ、
小さな水車があったはずなんですが、
撤去されているようです。
以前は一面にハスの葉があったようですが、
近年になって減少しているとの事。
淀城のハスは淀姫と言う固有種だそうで、
減少の原因はミドリガメの食害とのこと。
住民や団体によってミドリガメが駆除され、
ハスの植え付けが行われているようですが、
まだまだのようです。

こういうのは自治体によっては、
予算が出て改善されるケースもあります。
京都市の詳しい事情はわかりませんが、
公園の様子と同様で公的な対策は無い様子。
他方の人間の勝手な推測ですが、
淀には京都競馬場というドル箱があり、
そちらの方に力が注がれているのでしょう。
他の地方では何とか観光客を増やし、
地元にお金を落としてもらいたいと、
観光資源に対する整備をしていますが、
京都競馬場やその他観光資源が豊富な分、
そこまでの情熱が持てないのかも?
また歴史的遺産の豊富な京都市にある分、
予算がまわって来ないのかも?
伏見区が独立した自治体であったなら、
現状は大きく変わったかもしれませんね。

城跡も公園も整備がなければ荒れ果てます。
各地で維新150年と騒がれていますが、
鳥羽伏見の戦いの舞台である淀城は、
のひとつも立てられていません。
残念ながら今現在の様子から察すると、
これからも変わらない気がしますね。

【淀藩】
藩庁:淀城
藩主家:正成流稲葉宗家
分類:10万2000石、譜代大名

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