京都府京都市 伏見奉行所跡

伏見奉行所跡を訪問しようと、
JR京都駅から電車で向かいます。
複数の電鉄が通っていますので、
どれで行っても変わりないのですが、
とりあえず一番近い近鉄京都線に乗り、
桃山御稜前駅で下車しました。

伏見は平安期より別荘地として好まれ、
豊臣秀吉伏見桃山城を築いて以降は、
城下町としても栄えています。
江戸時代に入ると伏見桃山城は解体され、
伏見奉行所が置かれるとともに、
高瀬川の開削を行って、
京都-大阪間の水運の基点にもなりました。


京料理 魚三楼」。
江戸時代中期創業の高級魚料理屋。
勿論鳥羽伏見の戦いの頃もありました。
その家屋は当時のままで、
格子には銃撃戦の弾痕が残っています。


鳥羽伏見戦の弾痕」。
鳥羽伏見の戦いの戦火によって、
町の南半分が焼野原となりましたが、
魚三楼は幸運にも焼失を免れており、
今も当時の面影を残しています。
この弾痕は方向からすると、
薩摩藩側から放たれたものでしょうね。


伏見奉行所跡」。
伏見市街と周辺八ヶ村、
葭島新田を管轄する奉行所。
管轄区内の司法や行政、川船の監督、
及び年貢徴収も担当しています。
維新後に伏見奉行所は廃止され、
陸軍の基地として利用され、
工兵第十六大隊が置かれました。

伏見奉行所より戻って御香宮神社へ。

御香宮神社」。
伏見の産土神である神功皇后を祀る神社。
創建の由緒はわかっていませんが、
境内より良い香りの水が湧き出して、
その水を飲むと病が治るというので、
清和天皇から御香宮の名を賜ったという。
正門は伏見桃山城の大手門だったもの。


明治維新 伏見の戦跡」碑。
鳥羽伏見の戦いにおいて、
御香宮神社は薩摩藩陣営となっています。
初め徳川陣営の木札が掲げられていた為、
祠官三木善郷はこれを御所へ注進。
薩摩藩士吉田友実らがやってきて、
木札を外してここに駐屯しました。
やがて旧幕府軍が京に進軍しますが、
駐屯する薩摩藩兵と小競り合いとなって、
鳥羽方面から聞こえた砲声を合図に、
伏見での戦闘が開始されました。

陸軍奉行竹中重固が奉行所を本陣とし、
薩摩藩兵は高所の御香宮神社等から砲撃。
地の利を生かした砲撃で、
伏見奉行所は炎上してしまい、
錦旗の出現による旧幕府軍の混乱により、
旧幕府軍はまで撤退しています。


拝殿」。
本殿や拝殿は徳川家寄進によるもの。
後の世で徳川を滅ぼすことになるとは、
思っても見なかったでしょうね。


伏見の御香水」。
名称の由来となった湧水で、
昭和名水百選に認定されたもの。

この御香宮神社には、
伏見奉行所の庭園が再現されています。
場所は社務所の裏で参観料が必要。

遠州公ゆかりの石庭」。
伏見奉行所は砲撃により焼失。
奉行所内の庭園も手水鉢庭石が変色、
破壊されるなどの被害を受けています。
跡地に市営団地を建設する際、
この庭園の一部が見つかった為、
発掘された庭石を使って、
社務所裏に石庭を再現しました。

この伏見奉行所の庭園は、
江戸初期に小堀政一が作庭したもの。
小堀は伏見奉行に就任した際に、
伏見奉行所の改装を命じられ、
建物と同様に庭園を造りました。
小堀は庭造りに長けており、
将軍徳川家光が上洛した際に、
この伏見奉行所に宿泊していますが、
その庭園の見事さに感心し、
褒美として5千石を小堀に与えています。

最後の伏見奉行は請西藩藩主林忠交
安政6年に伏見奉行に就任しています。
慶応2年に坂本龍馬を捕縛する為、
捕方30人程を寺田屋に派遣しますが、
薩摩藩邸に逃げ込まれました。
伏見奉行所は引き渡しを求めますが、
薩摩藩側はこれを拒否。
忠交は奉行在任中に病死しており、
幕末最末期のごたごたで、
後任は選ばれませんでした。

ちなみに林忠交の死後、
請西藩主を継いだのは甥林忠崇
彼は藩主の身ながら脱藩し、
藩士70名と共に旧幕軍に合流しました。
この件で請西藩は改易となりますが、
これは諸藩で唯一の例となっています。

■関連記事■
京都府京都市 京都所司代跡
  京都の治安維持を担当した幕府機関。
京都府京都市 京都西町奉行所跡
 町方支配を行った所司代の下位組織。
京都府京都市 二条城
 徳川幕府の始まりと終焉の場所。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です