京都府京都市 伏見奉行所跡

伏見奉行所跡を訪問しようと、
JR京都駅から電車で向かいます。
複数の電鉄が通っていますので、
どれで行っても変わりないのですが、
とりあえず一番近い近鉄京都線に乗り、
桃山御稜前駅で下車しました。

伏見は平安期より別荘地として好まれ、
豊臣秀吉伏見桃山城を築いて以降は、
城下町としても栄えています。
江戸時代に入ると伏見桃山城は解体され、
伏見奉行所が置かれるとともに、
高瀬川の開削を行って、
京都-大阪間の水運の基点にもなりました。


京料理 魚三楼」。
江戸時代中期創業の高級魚料理屋。
勿論鳥羽伏見の戦いの頃もありました。
その家屋は当時のままで、
格子には銃撃戦の弾痕が残っています。


鳥羽伏見戦の弾痕」。
鳥羽伏見の戦いの戦火によって、
町の南半分が焼野原となりましたが、
魚三楼は幸運にも焼失を免れており、
今も当時の面影を残しています。
この弾痕は方向からすると、
薩摩藩側から放たれたものでしょうね。


伏見奉行所跡」。
伏見市街と周辺八ヶ村、
葭島新田を管轄する奉行所。
管轄区内の司法や行政、川船の監督、
及び年貢徴収も担当しています。
維新後に伏見奉行所は廃止され、
陸軍の基地として利用され、
工兵第十六大隊が置かれました。

最後の伏見奉行請西藩藩主林忠交
安政6年に伏見奉行に就任しています。
慶応2年に坂本龍馬を捕縛する為、
捕方30人程を寺田屋に派遣しますが、
薩摩藩邸に逃げ込まれました。
伏見奉行所は引き渡しを求めますが、
薩摩藩側はこれを拒否。
忠交は奉行在任中に病死しており、
幕末最末期のごたごたで、
後任は選ばれませんでした。

ちなみに林忠交の死後、
請西藩主を継いだのは甥林忠崇
彼は藩主の身ながら脱藩し、
藩士70名と共に旧幕軍に合流しました。
この件で請西藩は改易となりますが、
これは諸藩で唯一の例となっています。

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