岩休寺は阿月にあった曹洞宗の寺院で、
その創建は詳しくわかりませんが、
元々は心岳寺というお寺であったという。
寄組浦家が阿月を領する事となった際、
その菩提寺となって岩休寺に改称。
領主家の庇護を受けて隆盛しましたが、
明治維新後は庇護を失った事と、
檀家が少なかった事で廃寺となり、
本堂は令和3年まで現存していましたが、
倒壊の恐れがあった為に解体されました。
その岩休寺跡に浦家の墓所があります。
「浦家墓所」。
浦家は小早川家の庶流とされ、
安芸国豊田郡浦郷を領した事から、
浦姓を称した事に始まります。
歴代当主は小早川家に仕えでおり、
水軍の将として活躍したようで、
7代乃美宗勝は小早川水軍を率いて、
※6代より一時乃美姓を名乗り、
9代浦元種が再び浦姓を名乗る。
小早川隆景に従い毛利家の覇業に貢献。
隆景が没して小早川秀秋が当主となると、
小早川家から離れて毛利家に仕えます。
毛利家の防長減封後は安月を与えられ、
阿月2700石の領主として寄組に属し、
元種以降は10代浦就昌、11代浦広勝、
12代浦元敏、13代浦元敏(別人)、
14代浦就尹、15代浦房伴と続き、
幕末を迎えます。
残念ながら上記当主の墓はここに無く、
調べてもどこにあるか不明。
整理されてしまったのかもしれません。
「洞雲院殿大賢道輝大居士
香雲院殿梅室妙林大姉」。
16代当主浦靱負元襄とその室の墓。
寄組国司家18代国司就孝の次男に生まれ、
15代房伴の養子となって、
養父の隠居に伴い家督を相続しました。
加判役等の要職を歴任しており、
非常に優秀な官僚であったという。
尊皇攘夷派の重臣であったようで、
藩内の急進派に理解を示し、
また郷校克己堂を創立して家臣を育て、
白井小助、赤禰武人、世良修蔵等、
多くの人材を輩出させています。
文久3年に隠居していますが、
以後も尊攘派を支援していたという。
明治3年、死去。
浦靱負日記という日記を残しており、
幕末長州史の貴重な資料となっています。
「親篤院殿大徹教道大居士」。
17代当主浦滋之助親教の墓。
尼子氏末裔佐佐木元久の次男(?)で、
継嗣のいない元襄の養子となり、
養父の隠居に伴い家督を相続しています。
有事に備えて農兵隊の訓練を行い、
これが大島戦争に出陣。
幕長戦争後の小倉占領政策の際は、
番兵として派遣されました。
明治13年、死去。
この親教も詳細な日記を記しており、
これも貴重な資料となっています。
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