克己堂跡から南に数百m南下した場所に、
屋敷跡の碑が建てられています。
「奇兵隊総督 赤祢武人屋敷跡」。
克己堂跡から南に数百m南下した場所に、
屋敷跡の碑が建てられています。
赤禰武人は柱島の島医の子でしたが、
浦家家臣赤禰雅平の養子となりました。
ここはその赤禰家の屋敷であった場所。
「奥羽鎮撫総督府参謀世良修蔵屋敷跡」。
赤根の屋敷から更に数百m南下した所に、
世良修蔵の屋敷跡がありました。
彼も庄屋の息子から浦家家臣の養子となり、
士分となっていますので、
ここは世良家屋敷だった場所になります。
赤禰武人は奇兵隊三代目総督でしたが、
高杉晋作の功山寺挙兵後に出奔。
京都で幕府方に拘束されてしまい、
新撰組参謀伊東甲子太郎らに利用されて、
大目付永井尚志の随員として広島に同行。
長州に潜入して柱島に潜伏していたところ、
裏切り者として捕縛され処刑されています。
世良修蔵は第二奇兵隊軍監として、
幕長戦争では大島の奪還に貢献しています。
その後は鳥羽伏見の戦いを経て、
奥羽鎮撫総督府下参謀となり、
同じく下参謀薩摩藩士大山格之助に宛て、
「奥羽皆敵ト見テ」の密書を送りますが、
この手紙が仙台藩士らの手に渡り、
内容に怒った仙台藩士らに暗殺されました。
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