功山寺での高杉晋作によるクーデターは、
凡人からすれば一か八かの賭けだったわけで、
周囲から暴挙と言われても仕方がありません。
このクーデターは成功したから良かったのですが、
失敗すれは諸隊は解散、幹部は死罪となります。
組織のトップは、組織の存続させることが最重要であり、
一か八かの賭けで組織を潰すことはできません。
対外交渉についてもしかり。
交渉、交渉の末、落としどころを探し、
それでもダメな場合は武力に訴えるというのが常。
赤禰武人は組織のトップとして、
諸隊を存続させようと奔走したわけです。
これはトップとして至極真っ当な行動でした。
日本史においても武力決起が成功した例は数少ない。
さかのぼれば、遥か昔の戦国時代以来。
江戸時代でも武力決起は何度かありましたが、
そのすべてが失敗に終わっています。
幕末においても天狗党の乱、天誅組の変、
そして生野の変と失敗していますし、
なにより禁門の変や倉敷浅尾騒動で、
長州藩も武力決起を失敗しています。
武力による政変など妄想であり暴挙である。
これは正しい考え方でした。
とはいえ、勝敗には勝機というものがあり、
それをしっかり掴んだ者が、
栄光を手に出来るということも間違いではない。
晋作が勝機という凡人には見えないものを見ていたのは、
赤禰にとって不運でしかありませんでした。
赤禰は諸隊存続と内戦回避に奔走するのですが、
時の流れは一度動き出すと留まる事を知りません。
時流に逆らおうとすると飲み込まれるのは必定。
郷土に良かれと幕府方と接触した事が、
裏切り者の汚名を着せられる事となり、
追われる立場となってしまいます。
仕方なく故郷に潜伏してほとぼりが冷めるのを待ちますが、
藩使により捕縛されてしまいました。
弁明を許されぬまま処刑が決定。
首は鰐石に晒されることになります。
赤祢武人顕彰之碑と鰐石の重岩の場所。
椹野川沿いには赤祢の顕彰碑と、
斬首された赤禰の首を晒した岩があります。
「赤祢武人顕彰之碑」。
長らく汚名を着せられていた赤祢を復権させようと、
有志らが贈位運動を起こします。
帝国議会でも承認が得られたのですが、
山縣有朋、三浦梧楼の大反対によって、
結局贈位は叶いませんでした。
さらに時がすぎて昭和28年10月。
赤禰の処刑地にこの顕彰碑が建てられます。
「鰐石の重岩」。
顕彰碑より6~700m東の鰐石と呼ばれる場所には、
「鰐石の重岩」と呼ばれる大岩があります。
赤禰の首は鰐石に晒されたとされていますが、
岩に置かれたのか、晒し台に晒したのかはわかりません。
この岩は御神体であることから、
晒し台に晒したのではないと思いますね。
赤禰は諸隊の為、長州藩の為に行動したのでしょうが、
当時の長州人が京都で捕縛されるのは死を意味します。
しかし大目付永井尚志に意見書を提出して無事に釈放され、
しかも新選組の近藤勇、伊東甲太郎らと同道。
寝返ったと思われても仕方がありません。
信じろという方が無理な話でした。
晋作もクーデターという離れ業をやってのける訳ですが、
赤禰も信じられない離れ業で生還したのです。
別の離れ業をやってのけた二人は、
英雄と裏切者とに判れましたが、
これは歴史の悲運としか言いようがありませんね。
■関連記事■
・柳井市 克己堂跡と赤禰・世良の屋敷跡
赤禰は柱島の島医の子で、浦家家臣赤禰雅平の養子となっています。
・山口県柳井市 妙円寺(月性関連史跡)
赤禰は海防僧月性の門下。
・福井県小浜市 梅田雲浜関連史跡
赤禰は梅田雲浜にも師事しています。