[げっしょう]の名を持つ勤皇僧が、
幕末期に二人いました。
一人は清水寺成就院の住職で、
西郷隆盛と入水自殺した尊攘派の僧月照。
もう一人が海防僧と呼ばれた月性でした。
月性は妙円寺の住職の娘の子として生まれ、
豊前の恒遠醒窓に詩文を学び、
長崎に遊学して欧米列強への脅威を実感。
その後、京都、江戸、北越にも遊学し、
帰国後に妙円寺境内に私塾を開いて、
塾生らに尊皇攘夷や海防論を説きました。
残念ながら42歳という若さで病死しましたが、
門下には赤禰武人、世良修蔵、大洲鉄然、
大楽源太郎、天地哲雄などがおり、
野山獄の吉田松陰とも親交しています。
「幕末勤皇僧月性」像。
国道188号線の遠崎の海岸線を東に進むと、
刀を手にした月性の像が現れます。
月性像の後ろの公園のような場所に、
[忠勇義烈]の碑と何かの台がありました。
市に問い合わせみると月性とは関係なく、
定かではないが戦没者慰霊碑との事。
台は神輿台でした。
・・・言われてみれば神輿台ですねぇ。
土地柄、月性関連と疑ったのですが、
全然違いました。
この公園は松戸八幡宮の御旅所らしい。
そこから東へ進み妙円寺へ。
「妙円寺」。
月性が住職を務めた浄土真宗の寺院で、
大島戦争(大島口の戦い)の際には、
第二奇兵隊の本陣にもなっています。
正面の山門は当時のまま。
「妙円寺本堂」。
残念ながら当時の建物ではありません。
本堂が当時のままならば、
刀傷の2~3本はあったかもしれませんね。
「月性展示館」。
月性の資料や遺品が展示されています。
ボランティアガイドの方が、
館内を説明してくれました。
入場料は200円。
「男児立志の詩」碑。
月性が京都遊学に出る際に作った詩の碑。
男児立志出郷関
学若無成死不還
埋骨豈惟墳墓地
人間到処有青山
訳:男子が志を立てて故郷を後にしたからは、
所期の目的が貫徹できない以上、
二度と郷里の土を踏まない。
骨を埋めるのは古里である必要はない。
世間には何処にでも青山(墓地)がある。
「清狂草堂」。
月性が妙円寺境内に建てた私塾の草堂。
当時は本堂東側に建てられていたようですが、
明治23年に門下生や門徒らによって、
当時を模して現在地に建てられました。
現在は屋根の葺き替え、
補修が行われ綺麗になっています。
「清狂師之墓」。
月性の墓。
[清狂]は月性の号。
病死したのが安政5年ということもあり、
毒殺説もあるようですが、
毒殺しなくても捕まえれば良いだけですので、
病死であったのに間違いはないでしょう。
「贈正四位月性師碑」。
月性の顕彰碑。
50回忌を記念して建立されたもので、
篆額は毛利元昭、碑文は山縣有朋の撰。
山縣は16歳頃に月性に会った事があるという。
現在でも誰が歌っているか知らないけど、
良い歌詞だなってのありますよね。
幕末もそういうのと近いものがあったようで、
藤田東湖の[正気の歌]なんかもそうですが、
そういう[ヒット詩(?)]は、
その詩を作った者に会った事も無いのに、
心酔させてしまう力があったようです。
もちろん先ほどの[男児立志の詩]は、
尊攘志士達に愛唱されています。
月性は[内海杞憂]という建白書で、
身分を問わず志のあるもので、
新しい兵制を確立すべきと訴え、
後に奇兵隊などで実践されています。
また[封事草稿]でも、
長州が倒幕の主唱者であるべきと訴え、
これも後に実践されました。
月性は激情型の熱血漢であり、
大酒飲みでもあったという。
刀を持って舞う肖像画が知られますが、
酒席ではそのような光景が見られたらしい。
斎藤拙堂とは海防策の相違で激論となり、
同席した篆刻家中村水竹が場を和ませる為、
当時流行ったメリケン踊りを踊ったところ、
月性は[夷狄のふるまいをするのか]と怒り、
灯籠を真っ二つに切り落として、
その場は凍りついたという。
こういう御仁は畳の上で死ねないのですが、
突然の腹痛によって急死してしまいます。
思想家月性が仮に生き残ったとしても、
時代の流れに抗ったでしょうし、
甘んじるとも考えにくい。
弟子の大楽らと同じ道を辿った事でしょう。
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