眼鏡橋の近く中島川沿いに、
近藤長次郎の顕彰碑が建てられています。
「近藤昶次郎顕彰碑」。
平成23年に建立された顕彰碑で、
近藤長次郎顕彰会によるもの。
碑には長次郎が身重の妻お徳に、
送った最後の句が刻まれています。
うき雲の
たちおほふなる
うきよなり
きへなハこれを
可たみともみよ
訳:憂き雲が立ち覆うている、
今のこの時勢である。
いつどうなるか命のほどもわからない。
もし私が一朝の露と消えたら、
この歌をもって形見としてくれ
長次郎は高知城下の饅頭屋の息子で、
饅頭屋長次郎と呼ばていました。
幼少期より聡明で河田小龍の塾に学び、
後に岩崎弥太郎に師事。
土佐藩士由比猪内の従僕として江戸に随伴し、
儒学者安積艮斎や蘭学者手塚玄海に学び、
砲術も高島秋帆に学んでいます。
勝海舟にも入門しており、
その関係から山内容堂にも認められ、
文久3年に名字帯刀と近藤姓を拝領。
神戸海軍操練所で航海術を学びますが、
勝の失脚により脱藩しています。
長次郎ら練習生は薩摩藩に迎えられ、
土佐脱藩浪士らは亀山社中を結成。
薩摩藩名義で購入した武器を、
長崎から長州藩に運搬しました。
その後に小松帯刀の斡旋により、
英国への留学を志しますが、
これが亀山社中の隊規に違反するとして、
同志より追及を受けるに至り、
慶応2年1月14日に切腹させられました。
坂本龍馬は薩長同盟に奔走しており、
当時長崎を不在としていたようで、
訃報を聞いた龍馬はその死を惜しみ、
自分が居れば死なす事は無かったと、
嘆いていたとされています。
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近藤長次郎の墓があります。
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