長州藩には一門家老家が八家あり、
宍戸家を筆頭に、右田、厚狭、吉敷、
阿川、大野の各毛利家支流と、
準一門益田家、福原家の二家がありました。
このうちのひとつ大野毛利家は、
周防国熊毛郡を領する一門家老家で、
家祖である吉川広家の次男毛利就頼が、
名門吉見家に養子として家督を相続し、
後に毛利家に復した事から、
他家が一文字三つ星を用いていたのに対し、
丸に二つ引(引両紋)の家紋を使用しました。
大野家墓所は廃寺の海前寺跡にあります。
民家脇を通りますので挨拶は忘れずに。
蚊が出ますので肌の露出は避けましょう。
ちなみに僕は半袖半ズボンでしたので、
体中いっぱい刺されました。
直線の長い坂を登ると、
石段と説明板が現れます。
「大野毛利家家墓所」。
一門家老家にしては小規模ですが、
近くの秀巌寺にも女方の墓所があります。
2代及び8、9代の墓はありましたが、
その他の当主の墓は見当たりません。
「月舟院殿本源全無大居士」。
大野毛利家2代当主毛利就詮の墓。
初代当主毛利就頼の次男に生まれ、
父の死去に伴い家督を相続しました。
当主在任時は干拓で石高を上げており、
また朝鮮通信使を上関で饗応しています。
3代~7代の墓所は不明。
たぶん失われてしまったのでしょう。
「大㙒領主毛利寉翁源熈頼墓」。
大野毛利家8代当主毛利熈頼の墓。
安政2年に浦賀に出張し、
警護総奉行を任じられています。
藩内でも保守派に属しており、
広島に三家老の首を持参しました。
「元大㙒領主毛利親詮墓」。
大野毛利家9代当主毛利親詮の墓。
文久2年に兵庫警衛総奉行を務め、
内訌戦では大谷口総奉行を務めており、
指月城の城代にもなっています。
大野毛利家は他の家老家が爵位を受ける中、
唯一爵位は受けていません。
これは俗論派であったからともされますが、
単純に末席であったからかもしれません。
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