下関市豊北町阿川 阿川毛利家墓所

吉川元春の次男毛利元氏を祖とする阿川毛利家は、
長州藩一門家老家。
筆頭の宍戸家から右田毛利家厚狭毛利家吉敷毛利家に続き、
5席目の家格でした。

阿川という地は長州藩領の北西に位置し、他国と接することなく、
また交通の便もそんなに良くない辺境の地でした。
7000石程度の石高に185人の家臣を抱える大所帯で、
その地の利を生かして密貿易を行っていたという話もあり、
その為か海外情勢にも熟知してたようです。
さらに阿川は砂鉄や金も産出しており、
国内・国外に輸出していたとも考えられています。
密貿易には対馬を経由していたという事で、
対馬藩長州藩が親密だったのは、密貿易のおかげ??


阿川の旧街道沿いに看板があり、
阿川毛利墓地 徒歩三分」と書かれています。

ここの路地を通って線路を渡ると、
比較的新しい石碑が見えてきました。

郷校 時習館址」。
阿川毛利7代当主毛利広漢が創設。
論語の「学而時習レ之」(学んで時にこれを習う)を用い、
「時習館」と名付けられました。
長州藩は幕末期の藩の中で郷校の数が一番多く、
家老家や寄組家が家臣の子弟教育の為、
こぞって郷校を創設しています。


阿川毛利氏館址」。
「郷校 時習館址」の碑を右に進むと線路脇に碑が立っている。
線路沿いに石垣があり、阿川毛利家の屋敷のものとされています。
「郷校 時習館址」の碑の裏手に細道があり、
「阿川毛利家墓所」に繋がります。


阿川毛利家墓所」。
6代からの阿川毛利当主とその一族が眠ります。
ですが、幕末期の当主である14代毛利親彦の墓はここにはなく、
萩市中津江にあります。


十三代当主毛利熙徳」の墓。
幕末期の当主14代毛利親彦の父。
吉田松陰の外祖父(母方のおじいちゃん)は、
彼に仕える阿川毛利家の家臣でした。


十五代当主毛利寛」の墓。
14代当主毛利親彦が文久3年に隠居した為、
跡を継いで阿川毛利家当主となるのですが、
慶応3年に病気で隠居してしまった15代当主。
16代は再び毛利親彦が当主となっています。


毛利廣悌」の墓。
毛利廣悌は13代当主毛利熙徳の弟。
三家老の切腹が決定したことによって諸隊が激怒し、
彼らを奪取しようとする動きが萩に伝わった際、
諸隊鎮静奉行となって太田市之進ら諸隊幹部に対し、
暴挙を戒めるようを命じています。
また彼の四男は、毛利家一門でありながら毛利家を去り、
上野五郎として西南戦争に従軍して戦死した毛利親直

ここの案内柱は、当主だけでなく室や姫の名前まで書かれてます。
戒名だけとか、○○室とか俗名が書かれることが少ない女性の墓ですが、
よく調べられていますし親切ですね。


ウチの娘に似た名前もありました^^。ミヨ姫さま~。

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