阿川毛利家は吉川元春次男毛利元氏の系譜。
長州藩一門家老第5席目の家格です。
阿川は長州藩の北西に位置する地で、
交通の便も良くはない辺境の地ですが、
その7000石程度の石高の割に、
家臣185人を抱える大所帯でした。
阿川毛利家は密貿易を行っていたともされ、
その為か海外情勢にも熟知していたという。
密貿易には対馬を経由していたとされ、
対馬藩と長州藩が親密であったのは、
密貿易による部分もあったとされています。
阿川の旧街道沿いに看板があります。
これはわかりやすい。
ここの路地を通って線路を渡る。
「郷校 時習館址」。
7代当主毛利広漢が創設した郷校跡。
論語にある「学而時習レ之」から、
校名の「時習館」が名付けられました。
長州藩は幕末期の藩で郷校の数が一番多く、
家老家や寄組家が家臣の子弟教育の為、
こぞって郷校を創設しています。
碑の横の道を登って墓所へ。
「阿川毛利家墓所」。
6~13代、15代当主が葬られています。
幕末期14代毛利親彦の墓は、
萩市中津江にあるらしい。
※追記:令和5年5月にこの墓所に改葬。
また初代毛利元氏の墓所は通化寺、
2~5代の墓所は大寧寺とのこと。
※大寧寺の墓は失われていました。
山口県長門市 大寧寺墓地/阿川毛利家墓所
6代当主毛利元連の墓。
※碑銘が風化で読めません。
5代毛利就芝の死去により、
僅か3歳で家督を継ぎますが、
50歳まで生きて3代の藩主に仕えました。
上関で朝鮮通信使の接待を行っています。
7代当主毛利広漢の墓。
※こちらは碑銘が篆書体で読めません。
領内に郷校時習館を創設するなど、
英明な領主だったようですが、
8代藩主毛利重就と対立して隠居させられ、
家督を嫡男毛利就禎に譲りました。
「雪嶺蕉夢大居士」。
8代当主毛利就禎の墓。
父広漢が強制的に隠居させられた為、
8歳で藩主に就任しており、
その後26年間当主を務めて隠居しました。
「英心院殿傑宗常俊大居士」。
9代当主毛利信任の墓。
長州藩士柳沢就章の次男で、
従兄にあたる8代就禎の養子となり、
就禎の隠居により家督を相続しましたが、
翌年に病死してしまっています。
10代毛利昌祉、11代毛利就貞の墓は、
何故か合葬墓となっています。
毛利就禎室、10代当主毛利昌祉、
11代当主毛利就貞、毛利新熊、
毛利キヨ、毛利秀次郎の合葬墓。
※碑銘が風化で読めません。
10代昌祉は寄組士児玉就行の次男で、
急死した9代信任の末期養子となり、
その家督を相続しましたが、
その翌年に16歳で病死しています。
11代就貞は6代広規の三男で、
寄組繁沢家の養子となって家督を相続。
しかし10代昌祉の急死により、
家督を相続して11代当主となりました。
その後は22年間当主に在籍し、
75歳で死去しています。
他の被葬者についてはよくわかりません。
「恭嶽院殿徳相恒譙大居士」。
12代当主毛利房嘉の墓。
厚狭毛利家8代毛利就宣の次男に生まれ、
11代就貞の養嫡子となって家督を相続。
しかし僅か3年で病死しています。
「天量院殿泰應良義大居士」。
13代当主毛利熙徳の墓。
父の12代房嘉の長男として生まれ、
僅か1歳で家督を相続しています。
元服後は領内に御用窯を開設するなど、
領内の発展に尽力しました。
吉田松陰の外祖父(母方の祖父)は、
彼に仕える阿川毛利家の家臣。
上記したように14代の墓は萩にあります。
「毛利寛之墓」。
15代当主毛利寛の墓。
14代毛利親彦が文久3年に隠居した為、
家督を継いで当主となりましたが、
慶応3年に病気で隠居しており、
再び親彦が16代当主となっています。
「温徳院殿方雲義寛大居士」。
13代当主毛利熙徳の弟毛利廣悌の墓。
三家老の切腹が決定すると諸隊が激怒し、
彼らを奪取しようとする動きが萩に伝わり、
諸隊鎮静奉行に任じられています。
太田市之進ら諸隊幹部に対して、
暴挙を戒めるようを命じており、
また彼の四男毛利親直は、
毛利家一門でありながら毛利家を去り、
上野五郎として西南戦争で戦死しました。
ここの案内柱は当主だけでなく、
室や姫の名前まで書かれてます。
戒名だけとか○○室とか、
俗名わかる事が少ない女性の墓ですが、
よく調べられていますし親切ですね。
ウチの娘に似た名前もありました^^。
ミヨ姫さま~。
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