山口県防府市 天徳寺/右田毛利家墓所①

①/

右田毛利家毛利元就の七男天野元政が、
周防三丘1万石を与えられていたのを、
次代毛利元倶宍戸家と領地を交換して、
右田を領したことから始まっており、
家格は筆頭の宍戸家に次ぐ次席でした。
右田毛利家が清和源氏の流れを汲むとされ、
周防国に源頼朝が建立した総受寺を、
天徳寺と改めて菩提寺としていますが、
清和源氏に連なる系譜は不明。
天野も毛利も藤原氏で元政の母も平氏
どこかで清和源氏が入ってるんでしょうか?

とにかく菩提寺は天徳寺に定められますが、
2代元倶の墓は徳性寺にあったりします。
これは元倶が浄土宗に帰依したことからで、
浄土宗の寺である徳性寺に葬られた為で、
他の当主はこの天徳寺を菩提寺としました。


山門」。
頼朝が幕府や源氏一門の興隆を祈願して、
この地に総受寺を建立し、
上記のように後に天徳寺に改称しました。
この天徳寺は右田ヶ岳の登山口でもあり、
この山門を抜けて登山を開始するようです。

公孫樹(銀杏)」。
山門入った左側にある銀杏
頼朝は創建の際に公孫樹を植えたとされ、
今なおその公孫樹は境内にそびえ立ちます。
※・・ということは樹齢800年?
訪問時は季節ではなかったのが残念。


頼朝塚」。
公孫樹の脇に建てられた頼朝の供養塔。
墓石の様子からして後世の建立でしょう。
天徳寺は武士の祈願寺として栄え、
歴代の領主の庇護を受けていたようです


本堂」。
本堂の後ろにそびえるのは右田ヶ岳
切り立った花崗岩が多数露出する岩峰で、
登山家にも人気の山とのこと。
山頂に大内氏庶流右田家の城があり、
その居城として同地を守っていましたが、
毛利元就の周防侵攻に際して降伏。
その後の詳しい経過はわかっていませんが、
江戸初期には廃城となっています。


天徳寺の右側に墓地があり、
奥の石段から右田毛利家墓所に向かいます。
手前の新しい墓地の他、
石段両脇の林の中に古い墓が見えました。
右田毛利家家臣のものでしょう。


右田毛利家墓所」。
思っていたより立派な墓所でびっくり!
さすが次席一門家老家の歴代墓所です。
他の家老家や支藩の中でも一番立派。

つづく。
①/

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山口県防府市 天徳寺/右田毛利家墓所①」への2件のフィードバック

    1. kii 投稿作成者

      >森江孝市さん
      コメントありがとうございます。
      かなり以前に書き込まれていたようですが、
      見落として許可が今になってしまいました。
      本当に申し訳ありません。

      そうなんですね。
      毛利家が防長2国に減封された際に、
      出家されて住職になったのでしょうか?
      情報ありがとうございます。

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