①/②
右田毛利家は毛利元就の七男天野元政が、
周防三丘1万石を与えられていたのを、
次代毛利元倶が宍戸家と領地を交換して、
右田を領したことから始まっており、
家格は筆頭の宍戸家に次ぐ次席でした。
右田毛利家が清和源氏の流れを汲むとされ、
周防国に源頼朝が建立した総受寺を、
天徳寺と改めて菩提寺としていますが、
清和源氏に連なる系譜は不明。
天野も毛利も藤原氏で元政の母も平氏。
どこかで清和源氏が入ってるんでしょうか?
とにかく菩提寺は天徳寺に定められますが、
2代元倶の墓は徳性寺にあったりします。
これは元倶が浄土宗に帰依したことからで、
浄土宗の寺である徳性寺に葬られた為で、
他の当主はこの天徳寺を菩提寺としました。
「山門」。
頼朝が幕府や源氏一門の興隆を祈願して、
この地に総受寺を建立し、
上記のように後に天徳寺に改称しました。
この天徳寺は右田ヶ岳の登山口でもあり、
この山門を抜けて登山を開始するようです。
「公孫樹(銀杏)」。
山門入った左側にある銀杏。
頼朝は創建の際に公孫樹を植えたとされ、
今なおその公孫樹は境内にそびえ立ちます。
※・・ということは樹齢800年?
訪問時は季節ではなかったのが残念。
「頼朝塚」。
公孫樹の脇に建てられた頼朝の供養塔。
墓石の様子からして後世の建立でしょう。
天徳寺は武士の祈願寺として栄え、
歴代の領主の庇護を受けていたようです
「本堂」。
本堂の後ろにそびえるのは右田ヶ岳。
切り立った花崗岩が多数露出する岩峰で、
登山家にも人気の山とのこと。
山頂に大内氏庶流右田家の城があり、
その居城として同地を守っていましたが、
毛利元就の周防侵攻に際して降伏。
その後の詳しい経過はわかっていませんが、
江戸初期には廃城となっています。
天徳寺の右側に墓地があり、
奥の石段から右田毛利家墓所に向かいます。
手前の新しい墓地の他、
石段両脇の林の中に古い墓が見えました。
右田毛利家家臣のものでしょう。
「右田毛利家墓所」。
思っていたより立派な墓所でびっくり!
さすが次席一門家老家の歴代墓所です。
他の家老家や支藩の中でも一番立派。
つづく。
①/②
■関連記事■
・下関市豊北町阿川 阿川毛利家墓所
一門家老阿川毛利家の墓所。
・山口市吉敷 玄済寺/吉敷毛利家墓所
一門家老吉敷毛利家の墓所。
・山陽小野田市 洞玄寺/厚狭毛利家墓所
一門家老厚狭毛利家の墓所。
・山口県熊毛郡 海前寺跡/大野毛利家墓所
一門家老大野毛利家の墓所。
・周南市小松原 貞昌寺/宍戸家墓所
一門筆頭家老宍戸家の墓所。
天徳寺の森江は毛利の(けらい)
と従兄の森江が天徳寺に顔合わせに
行った時に聞いたと言ってました。
出身は広島市
>森江孝市さん
コメントありがとうございます。
かなり以前に書き込まれていたようですが、
見落として許可が今になってしまいました。
本当に申し訳ありません。
そうなんですね。
毛利家が防長2国に減封された際に、
出家されて住職になったのでしょうか?
情報ありがとうございます。