右田毛利家は、毛利元就の七男毛利(天野)元政を祖とし、
周防三丘に1万石を与えられ家老家となりますが、
2代当主毛利元倶が一門家老筆頭宍戸家と領地を交換し、
周防右田を領したことから右田毛利と呼ばれました。
家格は筆頭の宍戸家に次ぐ次席です。
右田毛利家が清和源氏の流れを汲むとされる事から、
周防国に源頼朝が建立した総受寺を、
家祖元政の法名にちなみ天徳寺と改めて菩提寺としました。
清和源氏の流れを汲むって事なので、
軽く調べてみましたがどうもわかりません。
天野も毛利も藤原氏だし、初代元政の母も平氏。
どっかで軽く清和源氏が入ってるんでしょうかねぇ。
とにかく右田毛利家の菩提寺は天徳寺に定められますが、
2代毛利元倶の墓は徳性寺にあったりします。
これは元倶が晩年、浄土宗に帰依したことから、
浄土宗の寺である徳性寺に葬られています。
その他の歴代当主はこの天徳寺を菩提寺としました。
「天徳寺山門」。
源頼朝が鎌倉幕府や源氏一門の興隆を祈願して、
この地に総受寺に建立します。
その際、頼朝は公孫樹(銀杏)を植えたとされており、
今なおその公孫樹は境内にそびえ立ちます。
※・・ということは樹齢800年!?
以降は武士の祈願寺として栄え、右田毛利家がこの地に移ると、
総受寺を菩提寺として定め、寺号も天徳寺に改めました。
「天徳寺本堂」。
本堂の後ろにそびえるのは右田ヶ岳。
切り立った花崗岩が多数露出している岩峰で、
登山家にも人気の山です。
この山頂に大内氏の庶流右田家の城がありましたが、
毛利元就の周防侵攻に際して降伏しました。
その後の詳しい経過はわかっていませんが、
江戸初期には廃城となっています。
この日はモヤがかかっており、写真がボケてしまいました。
天徳寺の右側に墓地があり、
奥の石階段から右田毛利家墓所に向かいます。
手前の新しい墓地の他、
石階段の両脇の林の中に古い墓が見えました。
右田毛利家家臣のものでしょうか?
「右田毛利家墓所」。
思っていたより立派な墓所でびっくり!
さすが次席家老家といったところでしょうか。
僕が訪問した他の家老家や支藩の中でも一番立派です。
「豊瑞魂彦毛利元亮翁之墓」。
11代当主毛利元亮の墓。
幕長戦争では三田尻防衛を担当しています。
「建功彦親信根毛利藤内大人之墓」。
12代当主毛利親信の墓。
幕長戦争の際には、石州口総督となっています。
鳥羽伏見、北越、会津戦争にも従軍して戦功を挙げました。
明治3年からフランスに留学。
岩倉使節団がフランス入りした際、
木戸孝允と一緒にパリの歯科医に通ったそうです。
※この事は「木戸孝允日記」に記されています。
帰国後は、第百十国立銀行の頭取となりますが、
労咳に罹ってしまい下関で療養するも、
37歳の若さで死去しました。
「和五彦従三位毛利祥久墓」。
13代当主毛利祥久の墓。
11代元亮の実子で12代親信の養子。
父の死後、第百十国立銀行の頭取となり、
三河湾の干拓事業を手がけています。
干拓で作られた新田は「毛利新田」と呼ばれますが、
高潮により塩害にあい「毛利新田」は壊滅。
その後、事業家神野金之助が「毛利新田」を再築し、
再び造られた新田は「神野新田」と呼ばれました。
その後も数々の開拓事業等に投資し、
昭和16年に死去しています。
その他、奥方のものと思われる五輪塔も立派でしたし、
1万6000石という微妙な石高のわりに、
とても裕福だったのだろうと思われます。
所領が交通の要所であったことで、
副収入があったのでしょうか?
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