①/②
つづき。
墓所には2代毛利元倶を除く、
右田毛利家歴代当主の墓が並んでいます。
「天徳性真大居士」。
初代当主毛利(天野)元政の墓。
毛利元就の七男として生まれますが、
天野家の家督相続に元就が介入し、
元政が天野家の家督を相続する事となり、
家臣団を従属させる事に成功。
以後は一門として毛利家の隆盛に貢献し、
多くの戦いで手柄を立てています。
関ヶ原の戦いで毛利家が減封となると、
熊毛郡三丘を与えられましたが、
後に佐波郡右田に移封されました。
父元就を大いに慕っていたようで、
元就の抜けた遺歯を肌身離さず持ち歩き、
三十三回忌まで手放さなかったようです。
※三丘に供養塔があります。
「傑心正英大居士」。
3代当主毛利元法の墓。
2代毛利元倶の長男として生まれ、
父の隠居により家督を相続しました。
加判役、指月城の留守居役等を務めており、
17年の当主在任後に死去しています。
「仁徹義勇大居士」。
4代当主毛利就信の墓。
3代元法の長男として生まれ、
父の死去に伴い家督を相続しています。
加判役を務めて藩主毛利綱広を支え、
朝鮮通信使供応役にも任じられました。
「大了院殿(左)」。
5代当主毛利広政の墓。
吉敷毛利家4代毛利就直の四男に生まれ、
4代就信の養嫡子となって家督を相続。
悪化する藩財政の再建に尽力し、
倹約令等の対策を行っていました。
良い領主であり家老でもあったようで、
彼の墓の横には神道碑が建てられています。
「實相院殿」。
6代当主毛利広信の墓。
5代広政の長男として生まれ、
父の死去に伴い家督を相続しますが、
同年に僅か13歳で死去しています。
「玄徳院殿」。
7代当主毛利広定の墓。
長府藩6代毛利匡広の三男として生まれ、
急死した広信の養子となって家督を相続。
利根川手伝普請の総奉行を務めています。
藩主となった実弟毛利重就を補佐し、
藩の財政再建に尽くしました。
「廊亮院殿」。
8代当主毛利就任の墓。
7代広定の長男として生まれ、
父の死去により家督を相続。
20余年も当職を務めています。
「逢原院殿」。
9代当主毛利房良の墓。
8代毛就任の長男として生まれ、
父の隠居に伴い7歳で家督を相続しますが、
22歳で早逝しています。
「俊徳院殿」。
10代当主毛利房顕の墓。
8代就任の三男として生まれ、
寄組士児玉親忠の養子となりましたが、
兄の9代房良が急死してしまった為、
実家に戻って家督を相続しています。
嫡男毛利元寿と不仲であったようで、
これが原因で家政が乱れてしまった為、
加判役を罷免されており、
元寿を廃嫡させて養嫡子を迎えました。
「豊瑞魂彦毛利元亮翁之墓」。
11代当主毛利元亮の墓。
吉敷毛利家12代毛利房謙の次男に生まれ、
元寿を廃嫡させた10代房顕の養子となり、
養父の隠居に伴い家督を相続。
幕長戦争では三田尻防衛を担当しています。
「建功彦親信根毛利藤内大人之墓」。
12代当主毛利親信の墓。
10代房顕の次男村上惟庸の長男で、
11代元亮の養嫡子となって家督を相続。
幕長戦争の際には石州口総督となっており、
鳥羽伏見、戊辰戦争にも参加しました。
明治3年からフランスに留学。
岩倉使節団がフランス入りした際、
木戸孝允とパリの歯科に通ったという。
※[木戸孝允日記]に記されています。
帰国後は第百十国立銀行頭取となりますが、
就任早々に労咳を罹ってしまい下関で療養。
37歳の若さで死去しました。
奥方らの墓も当主と同じく立派。
1万6000石という微妙な石高ですが、
とても裕福だったのだろうと思われます。
所領が交通の要所であったことで、
色々と副収入があったのでしょうか?
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