第一次長州征伐の降伏条件は、
三家老四参謀処罰、藩主父子の謝罪文提出、
五卿の藩外移居、山口城の取壊などでした。
そのうちの五卿の藩外移居では、
受け入れ先が福岡藩領の大宰府と決まり、
五卿達は宰府延寿王院に移動します。
大宰府での生活は意外と自由なもので、
もちろん勤皇の志士達にも会えましたし、
ちょっとした遠出(温泉など)も出来ました。
腐っても)失礼)公卿ですので、
どこに行ってもおもてなしされるのですから、
行く先々で書を残したり、
詩を詠んだりしていて楽しそうです。
福岡県筑紫野市は万葉の頃より歌が詠われ、
その為か歌碑が多く建てられていますが、
飛鳥、奈良時代の歌人の歌碑と共に、
当地に滞在中の五卿の詩も残されています。
五卿の歌碑の場所。
市内の歌碑の総数26基もありますので、
全て巡ると1日掛かりです。
「天拝山歴史自然公園」。
天拝山は大宰府に流刑された菅原道真が、
自らの無実を訴えるべく幾度も登頂し、
天を拝したという伝記に由来。
公園はツツジ、菖蒲、万葉植物など、
四季折々の花や植物が楽しめる他、
二日市温泉の発見者藤原虎麿像もあります。
この公園にある池上池のほとりに、
五卿のひとり四条隆謌の詩碑がありました。
「四条隆謌詩碑」。
青 山 白 水 映 紅 楓
楽 夫 天 命 復 何 疑
訳:青い山、澄んだ水に紅葉が映え、
とても美しい景色。
天命を受け入れそれを楽しめば、
何の迷いもなくなった
[王政復古を天命とする決意がしのばれる]
という解釈の説明がされていましたが、
単に自然を楽しんでいるだけのような・・。
王政復古を絡めるのは下衆い気がする。
四条は筑紫野の自然が気に入ったようです。
「武蔵寺」。
公園に隣接する武蔵寺は九州最古の寺院。
[今昔物語集]や[梁塵秘抄]にも、
この寺院の名が載っているという。
山門横に東久世通禧の歌碑があります。
「東久世通禧歌碑」。
ふじなみの はなになれつつ みやひとの
むかしのいろに そてをそめけり
訳:武蔵寺の「長者の藤」を見ながら、
昔栄えた宮人の着ていた紫の服の色に、
自分の衣も染まるようだ
祖先の華やかな時代をしのんだものですが、
彼の歌にも悲壮感はありません。
武蔵寺より北へ向かって歩き、
突き当たった帆足商店という商店向い側に、
壬生基修の歌碑があります。
「壬生基修歌碑」。
ゆうまくれ しろきはゆきか それならて
つきのすみかの かきのうのはな
訳:晩春の夕暮れに見える白いものは雪か
滞在先の垣根に咲く白い卯の花だった
滞在先を尽きの住家と詠んでいることから、
けして悪い印象ではないような気がします。
京で歌ったと言ってもおかしくないですね。
高速道路を渡って二日市温泉の大丸別荘へ。
ここの裏門に三条実美の歌碑があります。
「三条実美歌碑」。
ゆのはらに あそふあしたつ こととはむ
なれこそしらめ ちよのいにしへ
訳:湯の原に遊ぶ芦田鶴に、
千代の昔の馴れ初めを尋ねてみよう
「王政復古を目指した激しい心情を詠った」
と説明されていますがこれも下衆い。
温泉に浸かっていい気分の時に、
一句詠んだと思われますので、
風情を歌にしたものではないでしょうか?
大丸別荘は創業150年の老舗で、
夏目漱石、高濱虚子らの文人や、
皇室の方々も泊まった格式ある温泉旅館。
いつの日か泊まってみたいものです。
大丸別荘より南に進んだマンションの前。
三条西季和の歌碑があります。
「三条西季和歌碑」。
けふここに ゆあみをすれば むらきもの
こころのあかも のこらざりけり
訳:今日ここで温泉に浸かったら、
これまでの嫌な事も忘れてしまった
心の垢とは流浪についてでしょうが、
それも忘れたのんびりしたものです。
そこから南へ進んで、
県道31号線を越えてさらに進むと、
もうひとつ三条西季和の歌碑があります。
「三条西季和歌碑」。
ひとならぬ くさきにさへも わするなよ
わすれじとのみ いはれけるかな
訳:人ならぬ草木にさえも
「忘れないでいつまでも忘れません」
と言われた
滞在先での歓待に対する謝意を詠んだもの。
宿泊した松尾家で大歓迎を受けで、
「いずれ京にお帰りになるのでしょうが、
我々の事を忘れないで下さい。
私達もけして忘れません」と言われた。
とってもいい気分で詠んだ歌です。
もう一度高速道路を越えて八ノ隈池へ。
池のほとりに東久世通禧の歌碑があります。
「八ノ隈池」。
GoogleMapに池名は書かれていませんので、
ここを見つけたのは案内地図のおかげ。
八ノ隈池は2ヶ所あるようで迷いました。
人影のないさみしい池でした。
「東久世通禧歌碑」。
しもかれの おはながそてに まねかれて
とひこしやとは わすれかねつも
訳:霜枯した尾花に招かれた場所で、
過ごした事は忘れることが出来ない
先ほどの三条西の歌と同様に、
松尾家での歓待に対したもの。
それ程印象的なおもてなしだった模様。
これらの歌からすると長州での滞在より、
大宰府の方が良かったんだと思います。
臨戦態勢で殺伐とした長州藩での滞在は、
身の危険も感じていたでしょうし、
落ち着けるような状態ではなかったはず。
それに比べて大宰府ではのんびり過ごせる。
「大宰府に移ってきて正解だったなぁ~。
もっと早く来ていれば良かった~」
そういう感情が歌から聞こえるようです。
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