柳井市阿月にある赤禰武人の墓所。
赤禰は3代目奇兵隊総督で、
俗論党政権下で隊の存続に尽力しますが、
平和裏にこれを進めた為に、
功山寺挙兵後は立場を失ってしまい出奔。
上方へ出ますが幕吏に捕縛され、
幕府によって利用される事となり、
大目付永井尚志の随員となります。
赤禰は戦争を避ける為に長州へ帰還し、
主戦論の転換を図りますが、
同志にも相手にされる事はなく、
失意のうちに故郷の柱島に潜伏。
しかし捕らえられて山口に連行され、
弁解の機会も得られるまま斬首されました。
赤禰武人の墓は柱島にある他、
東行庵にも建てられていますが、
阿月の赤禰家の墓地にもあります。
「赤禰家墓所」。
県道72号線沿いに案内板があり、
そこから登るとあるのですが、
墓所への参道はなかなか急坂で、
足に乳酸が溜まるレベルです。
赤禰家は寄組浦家の家臣で、
長州藩からは陪臣にあたりますが、
列記とした武士階級でした。
「赤禰武人是一墓(左)」。
奇兵隊三代目総督赤禰武人の墓。
優秀ながら島医の子であった武人は、
郷校克己堂で学んだ縁により、
浦家家臣赤禰家の養子となり、
晴れて武士となったようです。
勤皇僧月性や吉田松陰にも学び、
更に梅田雲浜に師事しており、
江戸では御楯組に加盟し、
英国公使館焼討事件にも参加。
奇兵隊が創設されるとこれに加入し、
三代目総督に抜擢されました。
俗論党台頭で諸隊解散の危機となり、
これを回避する為に奔走。
組織存続を第一とする行動でしたが、
高杉晋作の挙兵で隊内の意見が変わり、
その立場を失ってしまいます。
一か八かの武力決起よりも、
組織のトップとしてその存続を図り、
穏便に交渉を続けたその行動は、
至極真っ当な選択。
結果として武力挙兵は成功した為、
これが武人に不運となりました。
「赤禰忠右衛門雅平
妻 三保墓(左)」、
「清冷院香譽妙薫大姉(右)」。
浦家家臣赤禰雅平夫妻の墓と、
雅平の実子赤禰篤太郎の妻の墓。
義父雅平は浦家の家老だったとされ、
優秀な武人を養子したようです。
義弟篤太郎は武人の死後に家督を相続。
日露役に近衛師団として従軍し、
衛生隊長として活躍しました。
晩年に栃木県矢板市に住んだようで、
彼の顕彰碑が同市に残っています。
武人の名誉回復に努めたとされますが、
妻の墓だけで彼の墓はありません。
矢板市にあるのかな?
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阿月郷校克己堂跡。