東京都世田谷区 世田谷松陰神社(祭)


出張で福島県郡山市に行く途中に、
東京に行ってきました。
北九州から飛行機で羽田まで行って、
東京駅東北新幹線に乗り換えます。
せっかく東京に寄ったんだから、
どこか幕末史跡に行かねばならぬ!
やはり松陰神社ではなかろうかと、
経路を調べてみると、
世田谷区は結構遠いのですね。
ここは手堅く上野へでもいくべきが・・。
いや!やはり松陰神社しかない!
ということで京急空港線で品川
そこからJRで渋谷
そして東急田園都市線で三軒茶屋
少し歩いて東急世田谷線で松陰神社前へ。

羽田には15:30に到着して、
16:30位に到着。
あれ??なんだろ?騒がしいなぁ。
え・・?祭り?

なんと!
萩・世田谷幕末維新祭り」の日だった。
初の世田谷松陰神社参拝が祭りの日とは。


おごそかに参拝するつもりでしたが、
ある意味ラッキーなのかな?
官軍、新撰組、長州藩兵、
会津藩兵のコスプレした人とかもいました。


松陰神社御社殿」。
立派ですね。
萩の松陰神社より大きいようです。


松下村塾」。
萩の松下村塾を模したものが、
社殿の横に建てられています。
本物を見飽きてるので、
綺麗な松下村塾は意外に新鮮ですね。

お目当ては松陰の墓所。
実際に松陰が眠っています。

社殿の左手に松陰らの墓所があります。
祭りのライトに照らされてなんだか幻想的。


子爵野村靖墓(左)」、
野村靖夫人野村花子墓(右)」。
松門四天王入江九一の実弟。
第二次伊藤内閣の内務大臣や、
第二次松方内閣の逓信大臣を歴任。
松陰が入った獄の牢名主沼崎吉五郎から、
留魂録」を渡された事でも知られます。
遺言によりここに埋葬されました。


来原良蔵妻和田春子墓碑」。
来原良蔵は後で説明しますが、
松陰の墓の横に眠っています。
その来原の妻春子の墓ということですが、
この春子という女性は桂小五郎の実妹。
それ故に埋葬されたのでしょう。


中谷正亮源實之墓碑」。
中谷正亮は松下村塾最年長の塾生で、
優秀な人材を村塾に招いた人物。
との結婚を躊躇する久坂玄瑞を諌めて、
縁談を成功させた功績(?)もあります。
松陰の死後は塾生の兄貴分として、
尊攘運動に邁進していますが、
万延2年8月8日に病死しました。


長藩第四大隊戦死者招魂碑」。
明治37年桂太郎によって建立。
桂は第四大隊二番隊司令でしたが、
二番隊は相当な死傷者を出しています。


松陰先生他烈士墓所」。
そして吉田松陰の墓所(真ん中が松陰の墓)。
綺麗なお花が供えられていますが、
お祭りだからでしょう。
高杉晋作伊藤博文山尾庸三
白井小助赤根武人らは、
松陰の亡骸を小塚原回向院から改葬し、
同時に頼三樹三郎小林民部も同じく改葬。
数日後に来原良蔵の墓を青松寺から改葬。
同年11月に福原乙之進を埋葬。 
長州征伐の際に一度墓は破壊されましたが、
木戸孝允らにより明治元年に修復され、
更に綿貫治良助を埋葬。
中谷正亮も清岸院より改葬しました。
長州藩邸没収事件の慰霊碑もあります。


綿貫治良助墓(左)」、
福原乙之進大江信冬墓(右)」。
綿貫は長州藩邸没収の際、
幕吏と争って自刃した足軽。
一橋家臣脇坂又三郎と談話中、
古河藩兵に包囲され自刃。
鞍馬天狗のモデルとしても知られ、
墓は美祢にもあります。
※記事はこちら


来原良蔵多々良盛功墓(中央)」。
先ほどの和田春子の夫。
伊藤博文の師としても知られる。
長州藩の軍制改革にも尽力するが、
横浜英国領事館襲撃を計画して、
世子毛利定広に戒められたことを苦に自刃。


小林民部少輔墓(左)」、
頼三樹三郎某姓醇墓(右)」。
小林民部は鷹司家家士。
安政の大獄にて捕らえられ獄死。
松陰と共に小塚原回向院より改葬。
頼三樹三郎頼山陽の三男。
安政の大獄にて捕らえられ斬首。

始めて行った世田谷の松陰神社。
萩の松陰神社より境内が狭いのは、
東京の土地事情からでしょう。
まさかの祭りに遭遇し、
記憶に残る参拝になりました。
次回はおごそかにお参りしたいです。

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 後に再訪問致しました。
東京都荒川区 南千住小塚原回向院
 こちらにも松陰の墓碑があります。
山口県萩市 吉田松陰墓所
 萩の吉田松陰墓所。久坂、高杉の墓碑もあります。

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