東京都荒川区 南千住 小塚原回向院

東京に出張。
突如としてスケジュールに余裕が出来たので、
南千住小塚原回向院に行ってきました。

小塚原回向院は両国回向院の住職弟誉義観が、
刑死した罪人を供養する常行堂を創建し、
それが両国回向院の別院となったもの。
ここに吉田松陰橋本左内など、
小塚原で刑死した志士らの墓があります。


南千住小塚原回向院」。
大きな金の三つ葉葵がまぶしい。
両国回向院は明暦の大火の犠牲者を弔う為に、
幕府によって創建された寺院であり、
別院であったこの小塚原回向院も、
三つ葉葵を付けることが許されました。


観臓記念碑」。
小塚原刑場では「腑分け」が行われ、
蘭学の発展に貢献しています。


小塚原の刑場跡」。
墓地は一般と史跡エリアに別けられており、
「小塚原の刑場跡」と称するエリアに、
刑死した有名人の墓石が並んでいました。


中野方蔵先生遺墳」。
佐賀藩の尊攘志士。
坂下門外の変の関与を疑われて、
伝馬町獄舎に入れられて獄死しています。


磯部浅一 妻登美子之墓」。
226事件の首謀者磯辺浅一の墓。
この辺は専門外で詳しくありませんが、
山口県出身の人物です。


左から「須山萬之遺墳」「後藤哲之介遺墳」、
水口秀三郎之墓」。
須山萬は鳥取藩の医家の出で、
周旋方として尊攘運動に参加。
長州藩水戸藩と交流していますが、
元治元年に幕吏に捕縛され、
慶応元年に斬首されました。

後藤哲之介は水戸藩郷士。
桜田門外の変の逃亡者広木松之介と偽って出頭。
伝馬町獄舎に投獄されていますが、
食を絶って獄死しています。

水口秀三郎はよくわかりません。


左から「森六物之遺墳」「梅田源次郎遺墳」。
森六物六物空満ともいい、
大和国出身の占星術師でした。
攘夷祈祷や公卿への工作活動に邁進しますが、
安政の大獄により捕らえられて獄死しています。

梅田源次郎梅田雲浜のこと。
小浜藩の過激派尊攘志士で、
幕政を批判して安政の大獄により捕縛され、
伝馬町の獄中で病死しました。


左から「得能淡雲墓」「児島艸臣墓」。
得能淡雲大洲藩出身の志士。
雲水姿で諸国を巡って尊攘運動を展開。
坂下門外の変の関与を疑われ、
伝馬町獄舎で獄死。

児島艸臣は宇都宮の商家出身の志士。
儒学者で攘夷家の大橋訥庵に学び、
坂下門外の変の関与を疑われ、
伝馬町獄舎で獄死。


左から「河本杜太郎之墓」、
甲田顯三通桓之墓」「横田藤太郎遺墳」。
河本杜太郎は越後の医者で、
儒学や国学を学んで尊攘運動に傾向。
同志と共に老中安藤信正の暗殺を計画し、
坂下門外の変で討死。

甲田顯三も坂下烈士の一人。
同志と共に坂下門外で安藤信正を襲撃して討死。

横田藤太郎は下野の商人横田藤四郎の長男。
父は天狗党の乱に参加しています。
坂下門外の変の関与を疑われ、
伝馬町獄舎で獄死。


左から「寒緑先生之墓」、
鵜飼吉左衛門遺墳 鵜飼幸吉遺墳」。
寒緑先生とは水戸藩士茅根伊予之介の事で、
幕政を批判したために安政の大獄で捕らえられ、
三田藩邸に預けられて斬首されました。

鵜飼吉左衛門は水戸藩士。
大日本史」編纂に従事し、
徳川斉昭の復帰運動に奔走。
以後、尊攘運動を展開しますが、
安政の大獄により斬首。

鵜飼幸吉は吉左衛門の子で、
父と共に尊攘運動に邁進。
安政の大獄により捕縛され打首獄門。


左から「鴨崖墓」「信海阿闍梨之墓」、
小林其典墓」。
鴨崖とは頼山陽の三男頼三樹三郎の号。
幕府より危険人物とみなされ、
安政の大獄によって斬首されました。

信海阿闍梨清水寺成就院の住職月照の弟で、
兄と共に尊攘志士達と関わりますが、
兄は西郷隆盛と入水自殺を図って水死し、
信海は安政の大獄により捕縛され、
獄死しています。


右から「齋藤監物遺墳」「黒澤忠三郎遺墳」、
山口辰之介遺墳」。
齋藤監物は桜田十八士。
襲撃の際には戦闘に参加しない予定でしたが、
途中から戦闘に参加して負傷。
龍野藩邸へ「斬奸趣意書」を提出し、
同志と共に熊本藩邸に預けられますが、
5日後に死亡しました。

黒澤忠三郎も桜田十八士。
重傷となって龍野藩邸に自首し、
各藩邸を転々と預け代えになった後で、
三田藩邸で死亡。

山口辰之介も桜田十八士。
重傷となって天童藩邸前で自刃しています。


右から「鯉淵要人遺墳」「稲田重蔵遺墳」、
森五六郎遺墳」「差野竹之介遺墳」。
鯉淵要人も桜田十八士。
諏訪神社神官で尊攘運動に参加。
重傷を負い天童藩邸前で自刃しました。

稲田重蔵は水戸の農家の子で、
農民を嫌って田丸稲之衛門の従者となる。
尊攘運動に傾向し、井伊襲撃に志願して参加。
桜田十八士の中で、唯一の討死を遂げています。

森五六郎も桜田十八士で、
直訴人として行列を止める役の担う。
襲撃後は熊本藩に自首し、
臼杵藩に預け替えされていますが、
臼杵藩士らが事件の詳細を聞いて記録しており、
後に重要な資料となっています。
文久元年に斬首。

差野竹之介も桜田十八士。
襲撃では特に深い傷を追っており、
龍野藩への自首当日に絶命しています。


左から「杉山彌一郎遺墳」「岡部三十郎遺墳」、
金子孫二郎遺墳」。
杉山彌一郎も桜田十八士。
鉄砲の技を買われて士分となった人物。
襲撃後は熊本藩に自首し、
村松藩で尋問を受けた後、
伝馬町獄舎で斬首されています。

岡部三十郎は桜田十八士ですが、
検視見届役として戦闘には参加せず。
襲撃後は薩摩の挙兵を促しますが果たせず潜伏。
水戸に帰った後、再び江戸へ出て、
吉原で捕縛されて斬首されました。

金子孫二郎も桜田十八士ですが、
戦闘には参加していません。
襲撃の首謀者で襲撃後に京都に向かいますが、
伏見で捕らえられて江戸に移送となり、
同志と共に斬首されました。


左から「森山繁之介遺墳」、
宮田瀬兵衛之遺墳」。
森山繁之介も桜田十八士。
襲撃時にも大した負傷無く脱出し、
熊本藩邸へ自訴しました。
一関藩足利藩に預けられた後、
同志と共に斬首されました。

宮田瀬兵衛は桜田十八士ではありませんが、
熊本藩邸に実行犯であると自首してきた人物。
伝馬町に送られ獄中で死亡しています。


左から「有村次左衛門遺墳」、
大関和七郎遺墳」「蓮田市五郎遺墳」。
有村次左衛門は桜田十八士唯一の薩摩藩士。
井伊の首級を斬り落としますが、
彦根藩士に斬られて負傷。
三上藩辻番所付近で力尽きて自刃しました。

大関和七郎も桜田十八士。
商人に変装して井伊家の動向を探っています。
襲撃後は熊本藩邸に自訴し、
富山藩豊岡藩に預け替えとなりました。
取調べの後に同士達と共に斬首。

蓮田市五郎も桜田十八士。
絵の才能があったため、
襲撃後に詳細を絵で表現しており、
後に貴重な資料となっています。
膳所藩へ預け替えされ、
取調べの後に斬首されました。


左から「廣岡子之次郎遺墳」「關鐵之介遺墳」。
廣岡子之次郎も桜田十八士で、
首を持った有村に助太刀して助けますが、
逃走後に姫路藩邸前で力尽きて自刃しています。

關鐵之介は襲撃の現場総指揮者で、
襲撃後に江戸を脱出して大阪に着きますが、
薩摩の挙兵中止や同志らの死を知って潜伏。
越後湯沢温泉で捕縛されて江戸に送られ、
取調べの後に斬首されました。


中央「關鐵之介妾伊能遺墳」。
關の襲撃前の潜伏を助けた元芸妓滝本いのは、
幕吏に捕られ拷問の末に死亡しています。


右「雲井龍雄遺墳」、
左「平尾桃巌斎信種先生墓」。
討薩檄」を起草した事で有名な雲井龍雄の墓。
薩摩閥から目の仇にされてしまったようで、
大した取り調べがないまま獄門となりました。

平尾信種は鎌倉の国学者でしたが、
天狗党の乱に参加しています。
天狗党の瓦解後に江戸に潜伏しますが、
捕えられて獄中死しました。


中央「肥前島原中村太郎之墓」。 
中村太郎北有馬太郎(中村貞太郎)の事で、
安井息軒の娘を妻に貰っており、
息軒に期待されていましたが、
後に国事に奔走するために、
妻子を捨てて名も変えています。
清河八郎虎尾の会に参加しましたが、
清河の殺人事件に連座して捕縛。
獄中死しています。


左から「源達信士(鼠小僧)」、
宝国信士(片岡直次郎)」、
榮傳信女(高橋お傳)」、
腕の喜三郎之墓」。
こちらは幕末ではないのですが有名どころ。
鼠小僧は有名な大泥棒。
片岡直次郎は天保期の無頼漢。
高橋お傳は毒婦として知られ、
日本で最後に斬首された女性。
腕の喜三郎は有名な隻腕の侠客。


松陰二十一回猛士墓」。
史跡エリア左側の一番奥が吉田松陰の墓石。
松陰の遺体は改葬されていますし、
当時の墓石も破壊されていますので、
この墓石は後に建てられたもの。


橋本景岳先生墓所」。
史跡エリア右側の一番奥が橋本左内の墓。
こちらは当時の墓石で松陰と違って建屋付き。
松陰と違ってこちらはメインの墓ですので、
それ相応の扱いなのでしょうね。
※後で調べるとこれは本墓ではなく、
 福井市の佐内公園に改葬されているようです。



小塚原烈士遺墳群」。
史跡エリアの外に、
刑死・獄死した志士らの墓石が並んでいます。
時間が無くて真剣に見てなかったのですが、
あとで調べると知った名前があって後悔・・。

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