世田谷区の松陰神社の再訪。
前回の訪問時は[幕末維新祭り]の最中で、
なんとも賑やかな参拝となりましたが、
今回の訪問は平日の昼間。
残念ながら天気は良くはないですが、
今度こそ厳かに参ろうと思います。
「松陰神社」。
伝馬町で斬首された吉田松陰は、
はじめ小塚原回向院に葬られていましたが、
文久3年1月5日に改葬されています。
高杉晋作、堀真五郎、伊藤利助、山尾庸三、
白井小助、赤根武人、遠藤貞一らが、
松陰の遺骨を掘り起こし、
同時に頼三樹三郎と小林民部も改葬。
後に同志来原良蔵の墓を青松寺から改葬し、
さらに福原乙之進も埋葬しました。
※翌元治元年に禁門の変が起こり、
幕府は長州藩江戸屋敷を没収しており、
墓石も破壊されています。
維新後の明治15年。
生き残った松陰門下生がここに社を建立し、
松陰らを招魂するに至っています。
「御社殿」。
伊藤博文、山縣有朋、井上馨等により、
一代目の社殿が造営されており、
現在の社殿は昭和3年に造営されたもの。
「松下村塾」。
萩の松陰神社境内の松下村塾を模したもの。
そして松陰ら志士が眠る墓域へ。
墓は禁門の変以降に破壊されましたが、
明治元年の江戸城無血開城以降に修復され、
明治2年に整武隊長官が墓前に至る道に、
石を敷いたとされています。
整武隊長官とは総督山田顕義の事。
「子爵野村靖墓(左)」、
「野村靖夫人野村花子墓(右)」。
野村靖は松門四天王入江九一の実弟で、
第二次伊藤内閣の内務大臣や、
第二次松方内閣の逓信大臣務めました。
遺言によりここに埋葬されました。
「来原良蔵妻和田春子墓碑」。
来原良蔵の妻和田春子の墓。
桂小五郎の実妹で18歳で良蔵に嫁ぎ、
2児を設けていますが、
良蔵が自刃してしまった為に、
25歳で未亡人となっています。
明治8年に死去してここに葬られました。
「中谷正亮源實之墓碑」。
中谷は松下村塾最年長者で、
優秀な人材を村塾に招いた人物。
松陰亡き後の松下村塾生を牽引しますが、
万延2年に江戸で病死し、
芝の清岸院に葬られていました。
明治元年の修復の際、
ここに改葬されています。
「長藩第四大隊戦死者招魂碑」。
明治37年に桂太郎が建立したもの。
桂太郎の第四大隊は約200名でしたが、
戦死者41名、負傷者53名と、
非常に高い死傷率の死の大隊でした。
彼らを招魂する為に建てられたもので、
自分の不甲斐なさを悔いたのでしょう。
「松陰先生他烈士墓所」。
墓域の奥に並ぶ吉田松陰らの墓。
「吉田寅次郎藤原矩方墓(中央)」、
「頼三樹三郎某姓醇墓(右)」、
「小林民部少輔墓(右2番目)」、
「福原乙之進大江信冬墓(左)」、
「来原良蔵多々良盛功墓(左2番目)」。
はじめ松陰と頼、小林の3人が改葬され、
後に来原と福原の墓が建てられました。
「綿貫治良助墓(左)」。
藩邸没収の際に自刃した足軽綿貫治良助。
明治元年に墓碑が建てられています。
「長州藩邸没収事件関係者慰霊碑」。
江戸藩邸の没収の際、
藩邸の藩士らの多くは拘禁され、
諸藩、諸家に預けられていましたが、
その多くが病死していることから、
罪人として扱われたと思われます。
碑には犠牲者48人の名が刻まれており、
そのうち45名が事件の犠牲者とのこと。
これにて2度目の参拝は終了。
境内に隣接して広沢実臣の墓があります。
完全に非公開となっており、
塀から微かに墓石が望める程度です。
確かに塀の向こうに墓石が見え、
「廣澤・・」の文字が読めます。
「故参議贈正三位廣澤公神道碑」。
鳥居と神道碑も見えますが、
残念ながら見えるのはこれだけ。
広沢の墓は山口にもありますが、
山口のは公園にあって普通に訪問できます。
※記事はこちら。
「公爵桂太郎之墓」。
隣接する若林公園に桂太郎の墓があります。
遺言で松陰神社の隣に葬られたのですが、
近頃安部晋三総理大臣に抜かれるまで、
通算在任期間トップの総理大臣でした。
その割にこじんまりとした墓所で、
前回来た時は夜店が開かれていたせいか、
全く気が付きませんでした。
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