東京都世田谷区 豪徳寺/彦根藩井伊家墓所

豪徳寺は彦根藩井伊家の菩提寺。
元々は世田谷城主吉良政忠が祖母の為に、
開基した弘徳院という小さな寺でした。

ある時、井伊直孝鷹狩りに出かけた帰り、
小さな寺の前を通りかかると、
門の前で一匹のが手招きをしていたので、
その門をくぐって寺に入りました。
すると突然雲行きが怪しくなって、
やがて雷雨となって雨宿りする事となり、
これが縁で直孝は和尚と親しくなります。
以降は直孝より寄進を受けるようになり、
井伊家の菩提寺とされました。


山門」。
山門は関東大震災によって倒壊し、
昭和初期に再建されたもの。
扁額には「碧雲関」と書かれていますが、
その理由は定かではないようです。


忠正公神道碑」。
山門を過ぎて左手にある巨大な石碑。
彦根藩16代藩主井伊直憲神道碑で、
死後の翌年に建立されたもの。


「仏殿」。
井伊直孝の長女である掃雲院が、
父直孝の菩提を弔う為に、
延宝5年に建立させたもので、
5体の木仏が安置されています。


三重塔」。
平成18年に建立された新しいもの。
装飾に猫が沢山施されています。


招猫殿」。
直孝を招き入れた猫を福を招く猫とし、
招福観世音菩薩として祀っています。
豪徳寺は招き猫発祥の地ともされ、
ゆるキャラひこにゃんの由来になりました。


招猫殿の横には大量の招き猫が!
これらは奉納されたもの。
僕も家族分買って帰りました。

招猫殿を出て西へ進む。

鳴鶴先生碑銘」。
彦根藩出身の書家日下部鳴鶴の顕彰碑。
彦根藩士田中惣右衛門の次男に生まれ、
同藩士日下部三郎右衛門の養子となり、
日下部家の家督を相続します。
維新後は新政府に出仕し太政官に勤め、
内閣大書記官となっていますが、
仕えていた大久保利通の暗殺を機に退官。
六朝書道を基礎に独自の書風を確立し、
書道に専念して多くの弟子を育てました。


日下部東作 徳配琴子之墓」。
碑の近くにある日下部鳴鶴夫婦の墓。
親交のあった清の書家呉昌碩の揮毫です。
生涯で千基以上の石碑を書いたとされ、
現在も全国に3百基以上の碑が残されます。
大久保公神道碑もそのひとつ。


遠城謙道師遺蹟碑」。
遠城謙道は彦根藩の足軽でしたが、
僧になって死ぬまでの30数年間を、
井伊直弼の墓守として過ごした人物。
この碑も鳴鶴の書によるもの。


高橋瑞子彰功之碑」。
高橋瑞子は日本で3番目の女医。
※1番目は荻野吟子。2番目生沢クノ
前橋の津久井磯子に産婆術を学び、
上京して産婆免状を取得。
大阪病院勤務を経て済生学舎に入学し、
明治21年に開業試験に合格。
日本橋で高橋医院を開きました。
38歳の頃にドイツに留学し、
ベルリン大学婦人科教室客員となり、
60歳まで医師を続けています。

碑群を過ぎるといよいよ井伊家墓所。

井伊家墓所」。
2代井伊直孝以下、
6、9、10、13、14代藩主と、
井伊家一族の墓があります。
井伊家の墓所はこの豪徳寺墓所の他、
彦根の清涼寺に初代井伊直政以下、
3、5、7、8、11、12代。
永源寺に4代井伊直興の墓があります。


井伊家墓所内。
藩主も奥方も同じ笠塔婆型の墓石です。


久昌院殿豪徳天英大居士」。
2代藩主井伊直孝の墓。
直孝は初代井伊直政の次男でしたが、
嫡男井伊直継が病弱で将器に欠けていた為、
大坂の陣では直孝が井伊勢を率いました。
これを理由に直継は廃嫡されており、
直孝が彦根藩主となっています。
※直継は直勝と改名し、
 安中藩3万石で別家を興しました。

直孝は徳川幕府初の大老となっており、
徳川家光から絶大な信頼を得て、
譜代最高の30万石を得ています。


宗観院殿正四位上前羽林
 中郎将覚翁大居士」。
13代藩主井伊直弼の墓。
11代藩主井伊直中の十四男として生まれ、
32歳まで部屋住みとして過ごしましたが、
12代井伊直亮の養嗣子井伊直元が死去し、
養嫡子となって13代藩主となっています。
大老に就任し日米修好通商条約の調印や、
将軍継嗣を徳川慶福とするなどを断行。
反対派を弾圧する安政の大獄を行いました。
これを恨んだ水戸藩尊攘急進派は、
桜田門外の変で直弼の行列を襲撃し、
直弼は暗殺されてしまいます。
直弼の首級は有村次左衛門に持ち去られ、
手傷を負った有村は三上藩邸前で自刃。
首級は三上藩から彦根藩に返還され、
胴体と縫い合わされています。
※首級は直弼ではなく近習の首とされ、
 直弼は重傷は生存しているとしています。

墓碑に刻まれた没日は3月3日ではなく、
3月28日となっており、
この間に跡目相続の手続きが行われました。


桜田殉難八士碑」。
襲撃により8名が死亡しており、
※即死4名、重傷で後に死亡4名。
彼らを悼んで明治19年に建てられた碑。
これも日下部鳴鶴の書によるものです。


貞鏡院殿柳室智明大姉」。
井伊直弼の正室多喜姫(貞鏡院)の墓。
直弼は部屋住みの間は縁談はなく、
養嫡子となってから正室を迎えました。
将軍の養女精姫を迎える話もありましたが、
養父の井伊直亮がこれを快く思わず、
丹波亀山藩から多喜姫を迎えるとして、
将軍家との縁談を断りました。
※精姫は有馬頼咸に嫁いでいます。
しかしその後は縁談が進まず、
婚礼は直弼が藩主になってからでした。


忠正院殿清節恕堂大居士」。
14代藩主井伊直憲の墓。
直弼の死により急遽藩主となった次男。
父の腹心長野主膳宇津木景福を処刑し、
前藩主の体制を否定しますが、
彦根藩は10万石厳封処分を受けています。
天誅組の変禁門の変に出兵する等、
譜代筆頭として貢献して3万石を回復。
しかし幕長戦争芸州口先鋒では大敗し、
井伊家の評判を落としました。
その後は勤皇派が実権を握っており、
王政復古の時点で新政府側に属しています。

井伊家藩主の代数は諸説あり、
直弼を13代とするものと、
15代とするもの、
16代とするものもあります。
これは初代直政の嫡男直継を2代とするか、
直継を数えずに直孝を2代とするかにより、
その数え方が変わっています。
彦根藩では数えない事となっていますが、
これを2代と数える場合は、
代がひとつ繰り下がります。
また4代直興の隠居後に、
5代直通、6代直恒が相次いで早逝し、
直興が直該と改名して藩主となっている為、
同一人物ながら4代、7代と数えると、
これで代がひとつ繰り下がります。
更に9代直定も10代直禔の早逝で再任し、
11代を直定と数えると、
またひとつ繰り下がります。
これら非常にややこしい事柄によって、
文書によって差異が見られるのが、
彦根藩主井伊家の特徴となっています。

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