①/②/③
萩には結構何度も足を運んでいるのですが、
吉田松陰の墓は平成27年の訪問以来。
記事も古いものでしたので、
今回もう一度手を合わせに行ってきました。
「吉田松陰先生」像。
墓所の隣にある松陰と金子重輔の銅像。
下田海岸でペリー艦隊を望見する姿です。
明治維新100年を記念して、
昭和43年に建てられたもの。
早速松陰の墓から。
「松陰二十一回猛士墓」。
松陰の本墓は世田谷松陰神社境内にあり、
この墓は遺髪墓となっています。
万廷元年2月7日の没後百ヶ日に建立され、
生家の杉家で卒哭忌が営まれて、
松陰の遺髪が埋められました。
この墓前の水盤、花立、燈籠には、
久保久清、佐世一誠、久坂誠、岡部利済、
福原利實、中谷実之、高杉春風、増野乾、
有吉良明、天野一寛、作間昌昭、時山済、
入江弘致、野村旨綏、松浦無窮、品川日孜
以上門下17名の名が刻まれています。
「吉田庫三之墓(左)」、
上記の松陰の墓(左2)、
「吉田大助藤原賢良墓(中央)」、
「吉田大助妻墓(右2)」。
松陰の墓の列に並ぶ吉田家の墓。
吉田庫三は松陰の妹千代の子で、
明治11年に吉田家11代当主となり、
教育者として尽くした他、
萩松陰神社の例祭で毎年祭主を務めました。
吉田大助は松陰の義父で山鹿流兵学師範で、
松陰の父杉百合之助の弟にあたります。
松陰を養子とした翌年に死去した為、
松陰は叔父玉木文之進の指導を受けて、
僅か9歳で明倫館兵学師範に就任しました。
大助の妻は久満と云い、
夫の没後は実家の森田家に戻りますが、
松陰の死後は墓参りを欠かさず、
その供養に努めたという。
その隣の墓は大助以前の吉田家のもの。
続いて実家の杉家。
「杉百合之助常道
同人配 墓(右)」、
「吉田小太郎竑墓(右2)」、
「吉田道子墓(中央)」、
「渡邊氏亀子
渡辺氏幸子墓(左2)」
「杉敏三郎墓(左)」。
杉百合之助と妻の瀧は松陰の実両親。
26石ながら三男四女を育てました。
吉田小太郎は松陰の兄杉民治の長男で、
吉田家の9代当主となりますが、
萩の乱に参加して戦死。
吉田道子は杉民治の三女で、
小太郎が戦死した為に吉田家を継ぎますが、
翌年に僅か2歳で早逝してしまいます。
渡邊氏の女性2人は民治の正妻と後妻。
杉敏三郎は聴覚障害を持った松陰の弟で、
要望は松陰に酷似していたとされ、
耳が聞こえず発音も不自由でしたが、
読書が好きで礼儀正しかったようです。
「従五位杉民治之墓」。
松陰の兄杉梅太郎(民治)の墓。
真面目で温厚な人物であったとされ、
松陰の遊学の際には旅費や学資を送り、
暮らしを顧みず支援に尽くしています。
しかし松陰に連座して免職されるなど、
松陰の行動によって迷惑を被る事も屡々。
杉家を相続すると官僚として藩に尽くし、
内訌戦では鎮静会議員として終息に奔走。
また民政に尽くした事からこの労を賞され、
毛利敬親より民治の名を与えられました。
廃藩後も山口県政に尽くし、
明治13年には松下村塾を再興。
修善女学校の校長にも就任しています。
明治43年、死去。
続く。
①/②/③
■関連記事■
・山口県萩市 吉田松陰墓所
前回訪問時の記事。
・山口県萩市 萩松陰神社
松陰が祀られている神社。
・東京都世田谷区 世田谷松陰神社(再訪)
松陰の本墓がある神社。