①/②/③
親戚の玉木家、久坂家、兒玉家の墓。
「玉木正韞先生之碑」。
吉田松陰の叔父玉木文之進の顕彰碑。
玉木家の墓所の前にあります。
「玉木家墓所」。
玉木家は長府藩乃木家の分家で、
長府藩医乃木瑞榮の嫡男政春が、
新規に召し抱えられて新しく家を興し、
政春の母たまきの名を姓にしたとされます。
杉家とは婚戚関係。大組士40石。
「玉木正韞(右)」、
「玉木彦介正弘墓(左)」。
玉木文之進と長男玉木彦助(介)の墓。
文之進は松陰を厳しく教育した事で知られ、
松下村塾の創始者でもある人物。
松陰の父杉百合之助の弟にあたり、
松陰への指導は非常に厳格だったとされ、
体罰も多かったとされています。
代官職など要職を歴任しており、
維新に役を辞して松下村塾を再開。
しかし萩の乱で教え子の多くが参加した為、
それを詫びるように先祖の墓の前で自刃。
この先祖の墓とはこの墓群と思われますが、
当時の墓所の場所は不明。
玉木彦助は文之進の長男で、
松陰の松下村塾で教えを受けており、
他の門下生同様に尊皇攘夷運動に参加。
元治元年に御楯隊に入隊していますが、
内訌戦で負傷してしまい、
回復の見込みが無いと悟り自害しています。
嫡子のいなくなった玉木家は、
乃木希典の実弟玉木正誼を養嫡子とし、
正誼は杉民治の長女豊子を娶りますが、
萩の乱に参加して戦死しています。
続いて久坂家。
久坂玄瑞が松陰の妹文を娶った為、
杉家と婚戚となっています。
「久坂良悦墓(右)」、
「久坂良廸墓(左2)」、
「中井氏冨子墓(右2)」、
「久坂玄機墓(右)」。
久坂良悦は道三流の漢方医で、
寄組兒玉家のお抱え医師から藩医となり、
久坂家を興しました。
その養嫡子久坂良迪は藩主毛利敬親や、
世子毛利定広の侍医を務めており、
冨は良廸の妻で久坂玄機と玄瑞の母。
久坂玄機は適塾の塾頭となるなど優秀で、
医学所好生堂の都講に就任。
海外事情に通じて西洋軍学にも詳しく、
数多くの洋学書も翻訳しました。
その後に病を患いますが、
海防に対する意見を藩に求められ、
病床で建白書を作成して上申。
その数日後に死去しています。
「贈正四位久坂義助君墓」。
久坂玄瑞の墓。
母富子、兄玄機、父良廸を相次いで亡くし、
天涯孤独の身で藩医久坂家を相続。
松下村塾に入門して頭角を現し、
高杉晋作と共に双璧と称されます。
松陰は久坂を長州第一の俊才と認め、
自分の妹文を嫁がせており、
その才能を深く愛しました。
松陰の刑死後は尊皇攘夷運動に奔走。
航海遠略策を唱える長井雅楽を失脚させ、
藩論を尊皇攘夷に変更させています。
三条実美、姉小路公知らと謀り、
京都での朝廷工作に邁進した他、
英国領事館焼き打ちや攘夷決行など、
過激な攘夷行動を先導します。
八月十八日の政変で藩が排除されると、
これを挽回する為に奔走しますが、
来島又兵衛らに押されて進発勢に参加。
禁門の変では鷹司邸に侵入し、
鷹司輔煕に朝廷への参内を嘆願しますが、
これを拒絶された為に自害しています。
一般的に久坂玄瑞と呼ばれていますが、
これは医師時代の名乗りであり、
志士として活躍した際は、
久坂義助を名乗っていました。
ただ久坂玄瑞はカッコいい名前なので、
これが通称となったものと思われます。
大組士兒玉家。
兒玉家は長州藩寄組士、大組士、
徳山藩士などに諸流がありますが、
この大組士兒玉家もそのひとつ。
「兒玉家の墓」。
墓碑銘は戒名の為に記載は割愛。
左側が兒玉太兵衛寛備の墓で、
松陰の母瀧及び妹千代の義父。
瀧は阿川毛利家家臣村田右中の娘で、
松陰の父杉百合之助に嫁ぐ際に、
大組士兒玉寛備の養女となっています。
後に寛備の息子兒玉祐之に千代が嫁ぎ、
寛備は松陰の母と妹の義父となりました。
※後に児玉芳子に改名。
また百合之助の母も寛備の実娘とされ、
非常に深い関係であったようです。
右側が千代の夫兒玉祐之の墓で、
祐之と千代(芳子)の次男庫三が、
吉田家10代を継ぎました。
ちなみに玉木文之進の自刃の際、
介錯を務めたのが千代であったようで、
気丈な女性であったとされます。
続く
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