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続いては門下生など。
「東行暢夫之墓」。
高杉晋作の本墓は東行庵にありますが、
ここには胎髪と臍の緒が納められています。
晋作の葬儀は慶応3年4月16日夜に、
吉田にて神式で執り行われていますが、
その13日後の4月29日に、
萩での葬儀が仏式で行われており、
その半年後の慶応3年10月に、
吉田松陰の傍らにこの墓が建立されました。
「吉田稔麿秀實墓(右)」、
「阿座上勝久夫婦
阿座上勝之夫婦 墓(中央)」、
「阿座上正蔵
新助光實夫婦(左)」。
墓所の端にある吉田稔麿と阿座上家の墓。
吉田稔麿は松陰門下の秀才で、
晋作、久坂玄瑞と並び三秀と称され、
入江九一を加えて四天王とも云われました。
※この四天王の初見が未だ見つからず。
尊皇攘夷運動で頭角を現し、
晋作の奇兵隊創設の参加した他に、
被差別部落出身者の屠勇隊を創設。
八月十八日の政変後の失地回復を目指し、
京都で周旋活動を行っていますが、
池田屋事件に遭遇して討死しています。
阿座上正蔵も松下村塾生で、
下関攘夷戦では壬戌丸で戦ったとされ、
禁門の変では国司信濃隊の配属。
中立売御門の戦闘で重傷を負い、
自刃して果てたとされています。
中央阿座上家の墓はよくわかりません。
「馬嶋誠一郎源光昭墓」。
松下村塾を再開した馬嶋甫仙の墓。
彼は書を読む事に優れていたようで、
松陰に塾中第一流の少年と称されました。
松陰の刑死後は国事に奔走し、
攘夷戦に参加した後に奇兵隊に入隊。
書記役を務めていますが、
これを辞して萩で漢学塾晩成堂を開き、
松下村塾も再興しています。
明治3年に山田顕義に乞われ大阪に出て、
その翌年に東京に移りますが熱病を患い、
28歳の若さで死去しています。
「駒井勝仲之墓(左)」、
「駒井政五郎藤原忠仲墓(中央)」、
「駒井染子墓(右)」。
長州藩士駒井政五郎とその親族の墓。
駒井も松下村塾に学んでおり、
海防大砲掛などを務めた他、
幕長戦争時は御楯隊隊長として活躍、
慶応3年には鋭武隊軍監に就任。
戊辰戦争を転戦して箱館戦争に至り、
二股口の戦いで戦死しました。
「佐久間佐輔源義章墓(右)」、
「弘新次郎藤原貞秀墓(左)」。
佐久間佐輔と弘新次郎の墓。
駒井政五郎の墓の前にありますが、
詳細はよくわかりません。
「長尾兵馬墓」。
駒井政五郎の墓の後ろにある墓。
奇兵隊士で越後西中ノ股で負傷し、
高田病院で戦病死しています。
「堀潜太郎春峰之墓」。
堀潜太郎は奇兵隊の小隊司令。
下関戦争や内訌戦、幕長戦争に従軍し、
北越戦争に参加して出雲崎で負傷。
柏崎病院で戦病死しています。
「口羽家の墓」。
口羽良純及び口羽家の墓。
墓碑銘は全ての判別が出来なかったので、
記載を諦めて口羽家の墓としました。
良純の墓は左から2番目。
口羽家は毛利家諸流志道家の一族で、
寄組三家、手廻組一家、大組一家あり、
この口羽家は大組士と思われます。
口羽良純は松陰の兵学門下で、
明倫館で山鹿流兵学の授業を受けた人物。
松下村塾にも来訪していたようですが、
正式には塾生にはなっていない模様です。
維新後は松本村の戸長を務めたという。
松陰の墓所に墓があるこれらの人物は、
遺言であったり遺族の希望であったりと、
その理由は色々とあるのでしょう。
何れにせよ松陰の墓の許へという理由で、
墓が建立されたものと思われます。
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