京都府福知山市 福知山城

福知山城織田信長中国攻めの際、
丹波国を平定した明智光秀により築城され、
女婿の明智秀満に与えられます。

本能寺の変で光秀が信長を倒した際は、
秀満は先鋒として本能寺を襲撃。
その後は安土城を抑えていましたが、
山崎の戦いで光秀が羽柴秀吉に敗れると、
安土城を退去して坂本城に入り、
堀秀政に包囲されて自刃しています。

福知山城は羽柴秀勝に与えられ、
その後は杉原家次が城主となった後、
小野木重勝が城主となりました。
重勝は関ケ原の戦いでは西軍であり、
細川幽斎が守る田辺城を攻撃。
降伏させて田辺城は明け渡されましたが、
関ケ原本戦が東軍勝利に終わった為、
重勝は福知山城に引き上げ、
幽斎の子細川忠興に福知山城を攻められ、
開城のうえ自刃させられています。


福知山城本丸跡」。
福知山城は廃藩置県後に廃城となり、
建物は全て取り壊されています。
その後、本丸跡が公園化されて、
昭和61年に天守等が再建されました。

本丸跡に登る前に二ノ丸跡へ。

京都地方裁判所福知山支部(二ノ丸跡)」。
本来の福知山城は本丸、二ノ丸、
伯耆丸が連なる連郭式平山城で、
二ノ丸に御殿が建てられていました。
廃城後は二ノ丸台地が削られて平地となり、
現在は本丸跡と伯耆丸跡の間がありません。

この二ノ丸台地が削り取られた理由は、
福知山連隊が駐屯地から演習場に行く際、
邪魔だったので削ったのだという。

削り取られて遺構は皆無の二ノ丸跡から、
公園化された本丸跡へ。

福知山城」跡碑。
二ノ丸跡が無くなっているとはいえ、
本丸跡は綺麗に整備されており、
往年の姿が蘇っています、
今年の大河の影響もあってか、
平日ながら観光客も結構いる様でした。


福知山市佐藤太清記念美術館」。
本丸脇に建てられている隅櫓風の美術館で、
本丸の一部のように馴染んでいます。

ここから緩やかな坂を登って登城。

銅門番所」。
福知山城唯一の現存建築物で、
元々は二ノ丸銅門脇にあった番所でした。
一時天守台に移築されていましたが、
天守閣の再建により再度移築されています。


天守」。
昭和61年に再建されたもので、
脇に小天守を付属させた連結式望楼型。
鉄筋コンクリート造で、
中は郷土資料館となっています。


天守台石垣」。
石垣には普通の石に交じって、
五輪塔宝篋印塔が使われています。
これらは[転用石]と呼ばれており、
周辺の寺院や墓地から石材が調達され、
福知山城の石垣に転用されました。


豊磐井」。
本丸に設置されていた巨大な井戸で、
深さ50mで城郭本丸内では、
日本一の深さの井戸という。
海面下7mもあり現在も水を湛えています。


朝暉神社」。
藩祖朽木稙綱を祀る神社で、
初代朽木稙昌が福知山に入封した際、
城内に社を建立した事に始まり、
11代朽木綱條の代に城南岡ノ段に移鎮。
廃藩後に13代朽木為綱が、
岡ノ段の神社を撤収し、
堀村の自宅住居で祀っていましたが、
明治14年に町民らの要望により、
天守台跡に再建。
更に天守が再建される際に、
現在地に置かれました。

福知山城は小野木重次の自刃後、
東軍に属した有馬豊氏に与えられ、
有馬家福知山藩が立藩しています。
豊氏はその後の大坂の陣でも戦功を挙げ、
20万石に加増されて久留米藩に転封。
福知山は一時天領となって後、
岡部長盛稲葉紀通が入封。
再び天領となった後に、
松平忠房を経て朽木稙昌が入り、
以後は13代朽木家が支配して、
廃藩置県に至ります。

幕末の藩主朽木綱張は奏者番を務め、
摂津の警備や京都警備に兵を派遣した他、
長州征伐にも出兵しています。
慢性的な財政難に陥っていたようで、
家老原井惣左衛市川儀右衛門
関三蔵らが倹約令を行い、
領民に重税を課し、
更に専売制を敷いた為、
大規模な百姓一揆が発生して、
城が包囲されるという事態となりました。
藩は事態の早期収拾を図り、
領民らの要求を全て受け入れ、
原井、市川は切腹、関は追放となります。
※万延強訴(市川騒動)。

綱張は慶応3年に死去し、
代わって藩主となった朽木為綱は、
鳥羽伏見の戦い後に山陰道鎮撫使に降伏。
丹波、丹後の幕領の接収を命じられました。

【福知山藩】
藩庁:福知山城
藩主家:朽木家
分類:3万2000石、譜代大名

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 福知山藩主有馬豊氏は久留米に加増転封。

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