出石城は有子山の山麓に築かれた城で、
守護職山名祐豊が築いた有子山城の下館を、
小出吉英が出石城として整備したもの。
吉英は宗家の岸和田藩を継ぎ、
出石藩は弟の小出吉親が継いでいますが、
この出石藩小出家は藩主の早逝が相次ぎ、
9代小出英及が3歳で死去したことにより、
無嗣断絶となってしまいます。
次に藤井松平家の松平忠周が入封しますが、
上田藩に移封され代わりに仙石政明が入封。
以降8代続いて廃藩置県を迎えました。
「登城橋」と「登城門」。
出石城は有子山の山麓にある城で、
曲輪が階段状に配置されたシンプルな構造。
藩庁三ノ丸跡は観光地化されていますが、
下郭、二の丸、本丸、稲荷丸は保存され、
当時の出石城の雰囲気を残しています。
「下郭跡」。
登城門をくぐって最初の下郭跡には、
石碑が数多く建てられています。
明治以降の事変の記念碑や忠魂碑の他、
なんだかよくわからない碑もあり、
幕末関係と特定できるもの探す。
「贈従四位多田彌太郎君
贈正五位高橋甲太郎君
贈従五位中條右京君 碑」。
生野の変に参加した出石藩士三名の碑。
多田弥太郎は藩校弘道館の寮長を務め、
長崎で高島秋帆に西洋の砲術を学び、
木製大砲を制作して城下で実射しています。
執政堀新九郎父子を糾弾した為、
8年の間幽閉されて文久2年に赦免され、
高橋甲太郎、中條右京と生野の変に参加。
幕府の迅速な行動により窮地に立たされ、
総帥澤宣嘉は落ち延びますが、
多田は別行動を取って城崎で捕縛され、
護送される途中に刺殺されています。
高橋は澤と共に長州へ落ち延び、
中條は途中で農兵に殺されました。
「故出石気多郡長西山君紀功碑」。
出石気多郡長西山員直の顕彰碑。
元出石藩士で維新後は藩少参事を務め、
廃藩置県後は豊岡県に出仕して、
気多郡長等を務めています。
「二の丸跡」。
下郭跡の上は二の丸跡。
桜が植えられている他は何もありませんが、
広々として日当たりも良く、
花見には最適であろうなと感じました。
「本丸跡」。
二の丸跡の次は本丸跡。
本丸と二の丸には御殿が建てられており、
階段状の渡り廊下で繋がれていたという。
イマイチどこにあったのか想像できません。
「東隅櫓」。
本丸の両端には隅櫓が再建されており、
非常に良い雰囲気を醸し出しています、
「西隅櫓」。
この二棟の櫓は模擬櫓との事ですが、
実際の櫓とそれほど変わりない櫓が、
当時も建てられていたようです。
「感応殿」。
出石藩仙石家の藩祖仙石秀久を祀る神社。
仙石秀久は漫画ゼンゴクの主人公で、
最近は知名度が上がっている模様。
豊臣秀吉の最古参の家臣で、
秀吉家中で最も早く大名になっていますが、
九州征伐で独断先行した為に大敗を喫し、
秀吉の怒りを買って高野山に追放。
後の小田原征伐で浪人を率いて馳せ参じ、
抜群の戦功を挙げて大名に復帰。
秀吉の死後は恩のある徳川家康に接近し、
第二次上田合戦で徳川秀忠に従っています。
この縁で秀忠から厚い信頼を得るに至り、
秀忠の代には特に重用されました。
この出石城は本丸のさらに上に郭があり、
稲荷丸と呼ばれています。
稲荷社のお約束である連なる鳥居を登り、
稲荷丸へ。
「有子山稲荷神社」。
本丸のさらに上部の郭に鎮座する稲荷神社。
本丸より高い位置に郭があり、
江戸時代を通じて庶民も参拝できたという。
庶民は本丸の横を通り過ぎて、
稲荷神社に参拝するのですから平和ですね。
既に藩政の中枢は三ノ丸でしたので、
それほど機密では無かったのでしょう。
稲荷丸よりさらに登山口を登ると、
山頂の有子山城に至ります。
出石城は有子山城の山麓の郭部分を改修したもので、
有子山城時代から、平時は山麓の居館に、
城主が住んでいたらしい。
出石城を降りて、昼食。
出石といえば出石そばです!
「出石そば」。
一人前を5皿に分ける出石そばのスタイル。
幕末頃にこのスタイルとなったようで、
屋台で手塩皿で提供したことに始まります。
仙石家が上田藩から出石藩に転封した際、
上田から蕎麦職人を連れて来た事から、
出石で蕎麦が広まったという。
江戸後期の出石藩は財政が逼迫しており、
改革派の仙石左京と保守派の仙石造酒が、
財政再建の改革案で対立。
これに藩主仙石政美は左京を支持し、
積極的な改革を推進させます。
藩士俸禄の借上や藩営物産会所の設置、
運上金の値上げ等の改革を進めますが、
成果を出せずに反発が出た為、
左京を罷免して造酒を登用。
しかしその直後に政美は急死。
隠居の前藩主仙石久道が家臣を招集し、
後嗣を選定する会合を江戸で開きます。
国元の左京も筆頭家老としてこれに参加。
実子小太郎もこれに同行させますが、
後嗣は久道の十二男仙石久利に決定し、
左京も久利の藩主就任に賛成しています。
その後も造酒ら保守派が藩政を担いますが、
派閥の対立が乱闘騒ぎにまで発展。
この責任を負って造酒らは隠居処分となり、
再び左京が藩政を掌握するに至りました。
左京は再度改革を進めますが、
保守派らは左京が現藩主を隠居させ、
実子を藩主に据えようと企んでいると、
元藩主久道に直訴していますが、
これに久道は取り合わず、
反対に関わった保守派を蟄居させ、
直訴の首謀者河野瀬兵衛を追放しています。
河野は一門の旗本仙石弥三郎に訴え、
これが久道の正室軽姫の耳に入り、
改革で耐乏生活を送っていた軽姫は、
久道に左京の非道を訴えました。
久道は左京に訴えがあったと伝え、
左京は軽姫に弁明した後に河野を捕縛。
またこれに加担した者も捕らえます。
この騒動は将軍の耳に入ることとなり、
※取り調べは吟味物調役川路聖謨。
この裁定により左京は獄門。
小太郎は八丈島へ流刑。
出石藩は2万8000石の厳封となっています。
藩政は幕府が推薦した堀新九郎が担当。
堀の専横による政治が行われました。
これを快く思わない久利や継嗣仙石政固は、
幕末の動乱で幕勢が弱まった事から、
堀の専横の罪で切腹させ、
以後は久利による親政が行われています。
※仙石騒動。
久利の上洛中に鳥羽伏見の戦いが勃発し、
戦いの勝敗を知った出石藩は、
いち早く新政府に恭順しました。
【出石藩】
藩庁:出石城
藩主家:仙石家
分類:3万石、外様大名
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・愛知県西尾市 西尾城跡
本丸に御剱八幡宮があり庶民が入れた。
・長野県上田市 上田城跡
蕎麦職人が出石に連れて来られました。
・京都府福知山市 福知山城
隣藩の福知山藩朽木家の居城跡。