元治元年7月。
禁門の変に敗れた長州藩は朝敵となり、
京都からその殆どが撤退しましたが、
桂小五郎はそのまま京都に潜伏しました。
しかし最早朝廷工作も不可能となり、
出石の町人広戸甚助に支援を求め、
甚助の手引きによって出石に潜伏。
甚助は父と弟直蔵の協力を得て、
知人宅の一間を借りて桂を住まわせ、
妹おすみに身辺の世話をさせています。
捕吏が桂の探索に来たという噂を聞くと、
桂を湯島(城崎)や昌念寺に移すなど、
各所を転々とさせました。
後に桂は何か商売をしていた方が、
捕吏の目を誤魔化せるであろうと、
荒物屋を開いて広江屋孝助と称しています。
「桂小五郎居住跡(荒物屋跡)」。
桂が開いた荒物屋は「広江屋」だったという。
ここで桂は竹細工や筵や米を売り、
捕吏の目を欺いたとの事です。
甚助は潜伏する桂の手足となっており、
幾松の消息を探るために京都に行かせたり、
幾松が下関に逃れているとわかると、
下関で幾松や村田蔵六に会ったりしています。
長州藩では高杉晋作がクーデターに成功し、
正義派による政権が誕生。
晋作らは桂をその統率者として迎えるべく、
幾松と甚助に迎えに行かせます。
大坂経由で出石に向かった2人でしたが、
甚助が資金の50両を博打で磨ってしまい、
会わせる顔が無いと蓄電。
幾松はひとり出石へ向かいました。
甚助の蓄電を聞いた弟の直蔵が大坂に向かい、
兄を探し出して出石に連れ帰り、
土下座させて許しを請うています。
※桂は甚助の帰還を喜びますが、
幾松はそっぽを向いていたという。
後に4人で大坂経由で下関に向かいますが、
大坂で幕吏の尋問に遭遇。
甚助が率先して捕まった為に、
桂は難を逃れて無事に下関に到着しました。
※すぐに甚助は釈放されています。
維新後に甚助が大坂で商売を始めると、
桂小五郎改め木戸孝允は開業資金を提供し、
「広江屋」の商号を許して孝助の名も与えました。
それ以降は木戸が大坂で宿泊する際は、
孝助の「広江屋」を使用したとのことです。
■関連記事■
・下関市南部町 紅屋跡
下関に来た幾松は紅屋に滞在しています。
・京都府京都市 京都霊山護國神社②
霊山護国神社にある木戸と妻松子の墓。
・山口市 木戸神社
山口市にある木戸を祀る神社。