長州風呂

じめじめした季節ですね。
こういう時はお風呂でさっぱりしたいもの。

日本古来のお風呂の様式のひとつとして、
五右衛門風呂というのがありますが、
これは鉄製の風呂桶の下でマキを焚いて、
底板を沈めて入るものでした。
江戸時代には庶民の間でも普及して、
浮世絵などにも描かれていたり、
東海道中膝栗毛」にも登場しています。
江戸っ子は毎日朝夕銭湯に通っていたとか。

この五右衛門風呂は正確には2種類あり、
湯船の縁が木桶で底のみ鉄のものを、
五右衛門風呂と呼び、
全て鉄製のモノを長州風呂と呼ぶらしい。

はて?長年長州に住んでいますが、
お目に掛かった記憶は無い。
・・で、調べてみると、
どうやら長州の名が付いているけれと、
広島で主に造られていたようです。

古来の風呂というものは蒸風呂がメインで、
湯に浸かるのは江戸時代とされますが、
正確な事はわかっていないらしい。
いつの頃か行水と蒸風呂が融合して、
湯浴みをするようになったようです。

・・で、湯浴みが一般化されると、
東日本では木桶が、
西日本では鉄桶が使用されたようで、
この五右衛門風呂、長州風呂という名称が、
いつ頃から言われたかは諸説あるようです。
五右衛門風呂の五右衛門というのは、
大泥棒石川五右衛門の釜茹からですが、
長州風呂に関してはよくわからない。

鉄の湯船の初造は周防国らしい。
重源という僧が奈良の大仏殿再建の為に、
周防で材木の伐採を指揮した際、
伐採従事者への湯施行施設を整備して、
鉄の湯船を作らせたのが最初という。
それが由来ならば防州風呂じゃないかな?

周防は昔、鋳造が盛んだったようですが、
やがて芸州が鋳造の本場となっています。
・・ということで、
長州風呂と呼ばれる鉄の湯船は、
主に安芸国で造られたらしい。

つまり芸州風呂って事になる訳ですが、
一説によると芸州風呂として売り出した際、
あまり売れなかったので、
飛ぶ鳥を落とす勢いの長州藩にあやかり、
長州風呂と名前を変えて売り出したら、
大変売れたということで、
そう呼ばれるようになったとか。

その説が正しいならば、
江戸時代はなんて呼ばれてたの?
さらに謎が深まります。

判ったことは結局のところ、
長州風呂と長州は関係がなかったようです。

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