日本が幕末に尊皇攘夷運動から倒幕を経て、
明治維新を遂げた頃、
お隣はどのような状況だったのでしょうか?
※タイトルが幕末朝鮮史ってなってますが、
朝鮮は幕末ではないので、
このタイトルは正確ではありませんが、
わかりやすい表現として使います。
当時の朝鮮は李氏朝鮮と呼ばれる王朝で、
日本と同じく鎖国政策を布いています。
とはいえ出島や清国の広州のように、
欧米への窓口は全く無く、
世界情勢を知る手段がありませんでした。
半島には窓口はありませんでしたが、
大陸からカトリックが伝来しており、
儒教の精神に反する教義であると、
幾度も弾圧事件が起こっています。
17世紀中盤になると、
欧米諸国は日本と同様に、
李氏朝鮮にも開国を求め、
英、仏、露等が干渉していました。
幼い国王高宗の父大院君が実権を握り、
鎖国攘夷体制を布き、
カトリックへの弾圧も強化しています。
半島で布教する宣教師や朝鮮人信者は、
大院君によって処刑され、
これに対しフランス極東軍は、
1866年に朝鮮への軍事攻撃を決定。
ギュスターヴ・ローズ指揮で、
フランス海軍が江華島を攻撃し、
江華島の一部を占領して、
首都漢江の封鎖に乗り出しました。
しかし文殊山城の戦いで、
5倍の兵力を持つ朝鮮軍に敗れ、
首都の漢江封鎖を断念するに至ります。
朝鮮軍は兵力を増員した為に、
ローズ少将は撤退を決意。
戦いは李氏朝鮮の勝利に終わりました。
この戦いの2ヶ月前。
米国商船ジェネラル・シャーマン号が、
通商を求めて羊角島に来航しますが、
朝鮮軍が乗組員全員を殺害します。
怒ったアメリカは江華島を攻撃。
草芝鎮、徳津鎮、広城鎮を占領しました。
朝鮮は約240人の戦死者を出しましたが、
アメリカ軍は戦利品を回収して退却。
これを李氏朝鮮は自国の勝利とし、
2度も列強を撃破した事により、
自国の軍事力を過信してしまいます。
攘夷熱の過熱した李氏朝鮮は、
日本からの使節団に非礼をとり、
日本に征韓論争が巻き起こるのでした。
実際にフランス軍を破ったのは確かです。
最新式の兵器を持ってしても、
どうしても数の論理があるわけで、
兵員を補充できる朝鮮軍は有利。
下関戦争も本格的な陸戦になれば、
同じ結果となっていたでしょう。
高杉晋作はそれがわかっていた訳で、
強気の交渉をする事ができたわけです。
ただフランス軍は陸軍国ですので、
陸戦をやりたがるフシがあるらしい。
これが敗因ですね。
李氏朝鮮はその後、大院君と閔妃の争い、
開化派のクーデター、清国の干渉、
東学党の乱、日清戦争を経て、
大韓帝国が建国されるわけですが、
安重根による伊藤博文暗殺によって、
日韓併合へと進むのでした。
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