12月14日は選挙でした。
選挙の日はTVも選挙特番で面白くないので、
ビデオでも見るのが普通になっています。
※投票はしましたよ。
でも結果なんかわかりきってます。
借りたのは[47RONIN]。
12/14は赤穂浪士の討ち入りの日。
実は12/14だから借りたわけではなく、
借りた後で気がつきました。
映画は忠臣蔵モチーフのファンタジーで、
モンゴル兵のような甲冑の赤穂藩士に、
モンスターや天狗等の人外、
江戸城より大きな吉良の城と、
ツッコミどころ満載の映画でした。
外国人の考えるサムライなんて、
こんなものなんでしょう。
わざわざ忠臣蔵にすることもない気も・・。
![](http://access21-co.xsrv.jp/shigekikou/wp-content/uploads/2019/08/739.jpg)
完全にモンゴル帝国の兵士ですね(汗)
忠臣蔵は元禄14年~元禄15年の出来事。
事件後には仮名手本忠臣蔵が描かれ、
歌舞伎等の人気演目となっています。
幕末と忠臣蔵との関わりの中で、
一番に有名なものとしては、
赤穂浪士を模した新選組のダンダラ羽織。
※実際の赤穂浪士の討ち入りは、
バラバラの服装だったようですが・・
なぜ装束を模したのかは諸説ありますが、
新選組を赤穂義士のような、
義と忠の集団にしたかったと思われます。
「明治元年 伏見鳥羽戦争図草稿」。
ダンダラ羽織を着る隊士が描かれています。
赤穂義士を目指した(?)新選組が、
その名を轟かした有名な事件は、
元治元年の池田屋事件です。
多くの尊攘志士が殺され捕縛されますが、
赤穂義士の子孫も含まれていました。
林田浪士大高叉次郎がその人物で、
彼は吉良邸での茶会の日程を探り、
討入日決定の役割を果す大高源吾の子孫。
赤穂義士を目指した(?)新選組が、
赤穂義士の子孫を葬るとは、
なんとも奇妙なめぐり合わせですね。
「池田屋の2階の写真?」
ネットで拾いましたが出処がわからん。
また吉田松陰も忠臣蔵と関わりがあります。
大石内蔵助が学んだ山鹿流軍学は、
松陰が長州藩の兵学師範となっていました。
また宮部鼎蔵らと東北遊学に出発しますが、
その出発する日を討入日に設定しており、
待ち合わせ場所も泉岳寺でした。
「泉岳寺の赤穂浪士の墓」。
高杉晋作も忠臣蔵をあやかっています。
元治元年に功山寺にて挙兵するのですが、
挙兵決行日を討入と同じ12/14に設定。
※準備が遅れて翌日になりましたが・・・
当日は珍しく大雪が降っていたとされ、
赤穂浪士の討ち入り感が、
参加者の中で盛り上がったことでしょう。
「高杉晋作回天義挙像」。
新選組や松陰、晋作に限らず、
当時の人々は忠臣蔵の義や忠の美徳に、
共感していたものと考えられます。
文政4年の相馬大作事件も、
忠臣蔵に例えられていたようで、
人の心に忠臣蔵が大きく刻まれていました。
■関連記事■
・松陰の東北遊学①
忠臣蔵にあやかった松陰らの東北旅行。
・烈婦登波と吉田松陰
日本人は敵討ちが大好きなようですね。
・秋田県大館市 相馬大作事件之地
赤穂浪士の再来と称えられています。