秋田県大館市 相馬大作事件之地

盛岡藩士下斗米秀之進が、
弘前藩主を狙った暗殺未遂事件。
下斗米が相馬大作と名を変えて潜伏していた為、
相馬大作事件と呼ばれています。

吉田松陰はこの事件に強い影響を受けていたようで、
30年後の東北遊学の際に暗殺未遂の現場を訪れて、
案内人に暗殺が成功したかを訪ねています。
※ただ松陰は場所を勘違いしており、
 矢立峠が現場であるとしています。

暗殺は失敗しているとわかっているはずですが、
わざわざ聞いたのは、どうしてでしょう??
実は藩主の暗殺は成功しているのに、
戒厳令が布かれたと思ったのでしょうか?
事実そういうウワサはあったようですが、
狙われた弘前藩主津軽寧親は事件後に隠居しており、
天保4年に死去しています。


大館市橋桁 岩抜山周辺(相馬大作事件之地の場所)
国道7号線沿いでカーブになっている場所で、
車を止めることのできるスペースがあります。
嘉永5年2月28日、
松陰は宮部鼎蔵と共にこの場所を訪れました。


相馬大作事件之地」。
盛岡藩と弘前藩には因縁がある事は、
何度かこのブログで触れております。
事件の前年の文政3年。
南部利用は14歳で藩主となりますが、
若年の為に無位無官でした。
それに引き換え弘前藩主津軽寧親は、
従四位下に叙任されて、石高も高直で10万石を越え、
8万石の盛岡藩を超えました。
元々弘前藩主津軽家は、盛岡藩南部家の臣下であった為、
盛岡藩からすれば、格下の存在であったのですが、
官位・石高共に弘前藩が上まわっています。

下斗米秀之進は、寧親に果たし状を送って辞官隠居を勧め、
聞き入れられぬ時は、悔辱の怨を報ると脅しますが、
もちろんそんなものを送っても無視されるだけ。
下斗米は門下数名と共に大名行列を待ち構えていましたが、
雇っていた刀鍛冶の密告によって、寧親は別ルートを通り、
襲撃は失敗に終わります。

追われた下斗米は、江戸に潜伏して相馬大作を名乗り、
江戸で道場を開いていましたが、
幕吏に捕まって獄門となりました。
この事件は大名を襲撃しようとした前代未聞の事件で、
その忠義心から赤穂浪士の再来などと称えられ、
前記の吉田松陰の他、
水戸藩の藤田東湖にも影響を与えています。

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