秋田県大館市 相馬大作事件之地

相馬大作事件盛岡藩士下斗米秀之進が、
弘前藩主を暗殺しようとした事件。
文政4年(1821)に発生したこの事件は、
下斗米が相馬大作と名を変えて潜伏した為、
相馬大作事件と呼ばれました。

吉田松陰はこの事件に強い影響を受けており、
事件から30年後の東北遊学の際に、
その暗殺未遂の現場を訪れて、
案内人に暗殺が成功したかを訪ねています。
※ただ松陰は場所を勘違いしており、
 矢立峠が現場であるとしています。

暗殺は失敗していると知っている筈ですが、
わざわざ聞いたのはどうしてでしょう??
実は藩主の暗殺は成功しているのに、
戒厳令が布かれたと思ったのでしょうか?
事実そういうウワサはあったようですが、
狙われた津軽寧親は事件後に隠居しており、
天保4年(1833)に死去しています。


大館市橋桁 岩抜山周辺
国道7号線沿いでカーブになっている場所で、
車を止めることのできるスペースがあります。
嘉永5年2月28日。
松陰は宮部鼎蔵とここを通りました。


相馬大作事件之地」。
盛岡藩と弘前藩には因縁がある事は、
何度かこのブログで触れております。
事件の前年の文政3年。
南部利用は14歳で盛岡藩主となりますが、
若年の為に無位無官でした。
それに引き換えて弘前藩主津軽寧親は、
従四位下に叙任されており、
石高も高直しされて10万石となり、
8万石の盛岡藩を超えました。
元々津軽家は南部家の臣下であった為、
盛岡藩からは格下の存在であったのですが、
官位及び石高共に負けてしまいます。

この状況に下斗米は寧親に果たし状を送り、
その中で辞官隠居を勧めていますが、
聞き入れられぬ場合は、
悔辱の怨を報ると脅しています。
勿論そんなものを送っても無視されるだけ。
下斗米は門下らと共に暗殺計画を練りますが、
雇っていた刀鍛冶の密告により露見。
寧親の大名行列は別ルートを通り、
下斗米の襲撃計画は失敗に終わります。

下斗米は江戸に潜伏して相馬大作を名乗り、
江戸で剣術道場を開いていましたが、
後に幕吏に捕まって打首獄門となりました。
大名の暗殺未遂という前代未聞の事件は、
その忠義心から赤穂浪士の再来と称えられ、
松陰の他に藤田東湖にも影響を与えています。

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