久保田藩佐竹家の藩庁は久保田城ですが、
大館城は一国一城令の例外とされた支城で、
他にも横手城がありました。
久保田藩佐竹家が支城を許されたのは、
その領地が広大であった事と、
関ケ原で中立を保っていた佐竹家を、
常陸一国54万5800石から、
石高不明の出羽半国に移封させた為、
※後に20万5800石と確定。
ある程度の配慮がされたと云われます。
とにかく藩庁以外の城の存続が認められ、
藩主一門の佐竹西家に与えられて、
城下は発展しました。
「桂城公園」。
本丸跡は桂城公園として整備されています。
大館城は桂城とも呼ばれており、
公園名はそこから名付けられました。
「水堀」。
公園南側に残される数少ない遺構。
「土塀」。
水堀に沿って土塀も残されています。
当時は本丸一円が土塀で囲われていました。
「大館城跡復元図」。
本丸の大手虎口跡にある復元図。
この復元図を見る限りでは、
周辺は水堀で囲まれていたようですが、
現存する水堀と水堀跡とされる道路には、
高低差がかなりあるようで、
連結していたとは思えませんので、
空堀だったのではないでしょうか?
「シロヤナギ」。
本丸内は遊具が設置されています。
遺構らしきものも見当たりませんが、
一際目立つ木があります。
推定樹齢は200年ですが、
廃城後に植えられたシロヤナギで、
本丸跡地に建設された小学校で、
砂ほこりを防ぐ為に移植されたという。
つまり樹齢50年のシロヤナギを移植して、
それが大きく育っているという事。
「桂城橋」と「秋田犬会館」。
目を引く赤い橋を渡ると三ノ丸跡。
秋田犬会館が建てられています。
桂城公園を出て、新町にある移築門へ。
「大館城移築門」。
新町にある民家に移築された城門。
大館城焼失後に焼け残った門で、
城のどこの門かはわからない。
それ程大きな門ではないので、
大手門ではなさそうですが、
門の割に民家はとても新しいお家でした。
このミスマッチが面白い。
久保田藩は奥羽越列藩同盟を脱退した為、
盛岡藩は久保田藩に戦書を提出。
家老楢山佐渡が藩境の十二所を攻撃します。
盛岡勢は十二所や扇田などを占領し、
更に大館城に迫っていますが、
久保田藩勢は城下でこれを迎撃。
最初は善戦するものの次第に総崩れとなり、
大館城代佐竹大和は篭城を決意しますが、
説得されて退却することとし、
大館城を自焼させています。
その後に大館を占領した盛岡勢は、
城下の諸役を集めて布告を行い、
新領主南部利剛の思召により、
3年間の免税を通知。
背く者は九族まで罪科に処するとし、
占領地には南部領の標木が建てられました。
盛岡藩は大館の支配を考えていたようです。
後に久保田藩は佐賀藩の加勢を得て、
攻勢の末に大館を奪還。
盛岡勢を藩境まで退かせました。
■関連記事■
・岩手県盛岡市 盛岡城跡
盛岡藩南部家の居城跡。
・秋田県横手市 横手城跡
大館城と同じく一国一城令の例外。
・秋田県大館市 相馬大作事件之地
大館市にある相馬大作事件の現場。