英彦山は福岡と大分の県境に位置する山で、
古代より神山として信仰の対象とされ、
修験場として行者が集まっていたようで、
天下に知られる霊場となりました。
平安時代より朝廷の勅願所と定められ、
朝廷の信仰も厚かったようです。
幕末期の文久3年。
全国寺社に対して攘夷祈願の朝旨が下り、
これに英彦山は座主以下全山衆徒を率い、
社頭に護摩壇を築いて、
30日間の外夷攘斤祈願をしました。
その後に京都に使者を送って大幣を献納。
列藩諸侯にも大幣を頒布しています。
以降の英彦山で尊皇攘夷運動が起こり、
有志あるものは連判状に署名し、
これより衆徒達は祈るだけでなく、
志士として行動を起こすに至りました。
地元小倉藩の煮え切らぬ態度に対し、
長州藩は攘夷の急先鋒。
英彦山の衆徒達は長州藩との連携を模索し、
長州藩に使者を送ります。
長州藩も喜んで英彦山に使者を派遣。
小倉城を攻略する計画が進められました。
そんな中で八月十八日の政変が発生。
これにより計画が遅れることとなります。
英彦山は朝廷と密接な関係の座主を派遣し、
長州の失権回復を計画しました。
その動きを察知したのは小倉藩寺社奉行。
よからぬ企てをしているのではないかと、
密偵を潜り込ませます。
情報を掴んだ小倉藩は討伐隊を編成し、
英彦山に急行。討伐隊は英彦山を包囲し、
山内建物を隅々までくまなく捜査し、
ついに連判状を発見しました。
藩兵はこの連判状に記された名前をもとに、
政所坊有緜、正応坊観道、義俊坊順堂、
良什坊幸貫、城島主税の5名を捕縛。
捕縛を逃れた成円坊貫之、橋本坊間道、
本覚坊英山も山外で捕えられました。
連判状には英彦山の幹部が揃い、
座主の不関与は考えられない事から、
甘露明王院権僧正教有も護衛名目で連行。
後に山内の容疑者60余名が捕えられ、
小倉八百八町の獄舎につながれました。
座主の家財は封印。
英彦山は小倉藩の管理下におかれ、
尊王攘夷の火は消えてしまいます。
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・福岡県田川郡 英彦山神宮
英彦山と殉難衆徒を招魂する招魂社。