高山彦九郎は江戸後期の勤皇思想家。
京都三条大橋東詰の土下座像が有名です。
※正確には皇居望拝。
高山は孝明天皇の2代前の光格天皇の時代、
尊号一件と呼ばれる事件で、
朝廷と幕府が対立した際に、
九州を拠点に同志を募りますが、
久留米で謎の自刃を遂げます。
その彦九郎の眠る墓が遍照院にあります。
「光明山遍照院」。
彦九郎は幕府から執拗な監視を受けており、
その圧力から死に至ったとも、
世を憂いての自刃ともされます。
最後期には殆ど狂気に近かったという。
「贈正四位高山正之先生」胸像。
京都の土下座の銅像とは、
イメージが違いますね。
京都で土下座したのは18歳頃の事。
この像は晩年の彦九郎でしょう。
「一音和尚の墓」。
胸像の隣にあります。
一音和尚は彦九郎を介錯した高僧とのこと。
「高山彦九郎先生之墓」。
墓石はそれ程大きいものではありませんが、
前方に立派な拝殿があります。
久坂玄瑞は文久2年2月にここを訪れ、
墓石をスケッチしています。
群馬県太田市細谷町に遺髪墓があり、
吉田松陰や高杉晋作、久坂玄瑞、
中岡慎太郎等が訪ねています。
「耿介四士之墓」と、
四士を殺害した3人の墓。
奇兵隊脱退騒動で大楽源太郎ら4名は、
新政府に非協力的な久留米藩を頼ります。
久留米藩は大楽らを歓迎していましたが、
新政府からの圧力を受けて、
挙句に大楽らの誅殺してしまいました。
この「耿介四士之墓」は、
直接殺害に関与した3名らが建立したもの。
殺された者の墓と殺した者の墓が、
隣同士というのも珍しい。
大楽の誅殺が止むを得ないもので、
志は同じであったということでしょうか?
「辛未遭難志士之墓(右)」、
「志士西道俊墓(左)」。
辛未~は大楽に呼応した藩士の5名の墓。
久留米藩は大政奉還後、
尊皇攘夷派が実権を握っており、
開国路線の新政府に反発を持っていたので、
不平士族が多かったようです。
西道俊は彦九郎を訪ねて来た同志で、
彦九郎の死を知って墓前にて殉死した人物。
「ひょうたん墓」と呼ばれています。
遍照院から高山彦九郎終焉の地へ。
彦九郎は同志の森嘉膳宅に身を寄せており、そこで自害しました。
「高山彦九郎先生終焉之地」。
儒医森嘉膳宅跡地で現在は饅頭塚や石碑、
説明板などが設置されています。
彦九郎の死後に思想や行動などが伝えられ、
幕末の志士達に影響を与えたという。
戒名は「松陰以白居士」。
吉田松陰は会沢正志斎の高山彦九郎伝で、
高山彦九郎の存在を知ります。
自分の号を彦九郎からちなんだことも、
その影響力のほどが伺えますね。
■関連記事■
・防府市 大楽源太郎墓所
防府にある大楽源太郎の墓。
・福岡県久留米市 山川招魂社
高山彦九郎が主祭神。
・防府市 繁枝神社/大楽先生之碑
大楽源太郎の顕彰碑があります。