了円寺は功山寺挙兵で新地会所を襲った後、
反乱軍が駐屯した寺として知られ、
本堂にその時に付けられた刀痕が残ります。
「了円寺本堂」。
本堂は当時のまま。
柱に残された刀痕は見事な二太刀の痕で、
ある程度の腕を持つ者の残したものという。
了円寺の墓地にある長州兵らの墓。
小倉戦争で戦死した3人の墓があります。
本堂の真裏に3基並んでおり、
簡単に見つける事ができます。
「秋枝庄太郎墓」。
毛利左門家臣で赤坂の戦いで負傷し、
下関に運ばれて戦病死。
彼らは元々先大津宰判屯集の兵で、
決戦にあって後方での任務を良しとせず、
毛利左門以下50名が前線に志願。
必要な場合は呼ぶと帰らされた部隊で、
その志願の甲斐あってか、
第三次上陸作戦で呼ばれました。
「山崎四方七昌實墓」。
長州軍艦癸亥丸の艦砲司令。
田野浦上陸戦の際、
癸亥丸は上陸部隊を支援しますが、
門司側の反撃により直撃を受けて損傷。
山崎はその時に即死しています。
「山城平吉政久墓」。
周防国山代出身の奇兵隊士で、
赤坂の戦いで戦死しました。
赤坂の長州奇兵隊戦死墓には、
福岡県北九州市 長州奇兵隊の墓
彼の名前も刻まれています。
3人は小倉戦争での戦死者というだけで、
出身地も、部隊も、身分も違います。
何故この3人だけここに墓があるのかな?
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野戦病院として使われた吉田の寺院。
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小倉藩小笠原家の居城。
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大里の戦いで戦死した報国隊士の墓。