玄済寺にある福原広俊の墓。
※吉敷毛利家の記事と分けました。
「家老 十三代福原広俊公」。
福原家13代当主福原広俊の墓。
吉敷毛利家が知行地替えで吉敷に入る前は、
吉敷周辺は福原家の所領。
安土桃山~江戸初期の当主13代広俊は、
長州藩を立藩した初代藩主毛利秀就を支え、
幕府との折衝に奔走しました。
寛永2年(1625)の知行地替えでは、
宍戸元匡が右田から三丘へ、
毛利元倶が三丘から右田へ(右田毛利)、
毛利元景が椙杜から阿川へ(阿川毛利)、
毛利元包が阿川から吉敷へ(吉敷毛利)、
福原元俊が吉敷から宇部へ移転し、
以後は廃藩まで同領地となっています。
既に13代広俊は息子元俊に家督を譲り、
元和9年(1623)に死去しており、
ここに葬られました。
永代家老福原家の歴代当主には、
福原広俊と名乗った人物が4人。
また貞俊が2人に元俊も2人おり、
福原家は非常にややこしいです。
■関連記事■
・山口県山口市 玄済寺/吉敷毛利家墓所
元記事。吉敷毛利家の歴代墓所。
・山口県防府市 天徳寺/右田毛利家墓所
一門家老右田毛利家の墓所。
・下関市豊北町阿川 阿川毛利家墓所
一門家老阿川毛利家の墓所。
・山陽小野田市 洞玄寺/厚狭毛利家墓所
一門家老厚狭毛利家の墓所。