福島県いわき市 笠間藩飛地神谷陣屋跡

磐城平にほど近い神谷という場所に、
笠間藩飛地がありました。
笠間藩は飛地の出張所として、
行政を司る神谷陣屋を設けています。

幕末の笠間藩8代藩主牧野貞直は、
鳥羽伏見の戦い時の大坂城代でしたが、
徳川慶喜が大坂城から敵前逃亡すると、
貞直も陸路で江戸に帰還。
その後藩論が二分されて混乱しますが、
新政府に恭順しました。

しかし神谷陣屋の周辺諸藩は、
次々と奥羽越列藩同盟に加盟しましたが、
神谷陣屋は本藩の方針に従って、
新政府側に属すことになります。
神谷陣屋には50名の藩士が常駐するのみで、
磐城平藩兵200名がこれを包囲して攻撃し、
神谷陣屋の軍宰武藤甚左衛門ら笠間藩兵は、
抵抗むなしく神谷陣屋を放棄。
四倉の薬王寺に退却しました。


いわき市立平第六小学校(笠間藩飛地神谷陣屋跡)」。
神谷陣屋跡は平第六小学校となっています。
訪問時は平日。
授業中のようで職員室まで行って、
教頭先生の許可を得て、
体育館裏の石碑の場所を教えて頂きました。


自治功労者 佐藤久三郎君頌徳碑」。
体育館裏に石碑か並んでおり、
これが一番大きい石碑。
どういう人かわかりませんが、
このあたりの自治の功労者なんでしょう。
揮毫は子爵牧野貞亮となっています。
※牧野貞亮は笠間藩最後の藩主の婿養子。

この石碑と並んで石碑が3つ建っていました。

左から、
紀元二千六百年記念碑」、
奉公碑」、
御大典記念」碑。
左右の2つの石碑は大祭などの記念碑。
お目当ては真ん中の「奉公碑」です。

元藩士らによって建てられたもので、
神谷での戦闘の様子か刻まれています。
碑文には孤立無援という表現もあり、
四方を敵に囲まれた緊迫した状態が窺えます。

平第六小学校を出て南にある立鉾鹿島神社へ。
戊辰戦争の戦病者の慰霊碑があるらしい。

立鉾鹿島神社」。
小山の麓に鎮座しています。
田畑にはさまれた参道が、
のどかな雰囲気で良いですね。


立鉾鹿島神社拝殿」。
立鉾の由来は、昔、魍魎が人々を悩ませており、
神職の藤原信次が山頂に鉾を立て、
籠もり祈願をして退治したからとも、
武甕槌神が東北平定の際に山に鉾を立て、
東北を眺望したからともされます

境内を探しますがそれらしき碑が見当たらない。
散々うろうろした挙句やっと見つけました。

先ほどの鳥居の横。
木々で隠れ気味になっています。


為戊辰役各藩戦病没者追幅」碑。
あぜ道を通ってなんとか到着。
何故こんなところに建てられているのか?
各藩戦病没者となっていますが、
新政府軍、同盟軍双方の慰霊碑でしょうか?

立鉾鹿島神社を出てさらに南へ。
常磐線の線路を越え、
国道6号線も越え大円寺へ。
そこに軍宰武藤甚左衛門の碑があります。

大円寺」。
ずらっと墓石の立ち並んだ先に本堂があります。


武藤忠倍君碑」。
本堂正面あたりにありました。
四面楚歌状態の神谷陣屋の笠間藩士達を率い、
4倍の兵力差の圧倒的不利な状況で、
統率力を発揮した武藤甚左衛門を称えてます。

次は笠間藩士らが立てこもった薬王寺へ。

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