奈良県奈良市 柳生陣屋跡

柳生新陰流将軍家御流儀として栄え、
柳生藩の藩主は兵法指南役を務めており、
その役目から藩主は常に定府しています。

藩祖柳生宗矩柳生石舟斎の子で、
石舟斎は上泉信綱に指導を受けた達人。
豊臣秀吉の政権が樹立すると、
太閤検地で代々保持した所領を失い困窮。
父と共に放浪の旅に出ました。
やがて石舟斎が徳川家康の御前で、
極意の無刀取りを披露。
家康は石舟斎に入門する事となります。
宗矩は家康に仕える事となり、
関ケ原の戦い大坂の陣にも従軍。
順次加増されて柳生藩を立藩しました。

宗矩は三代徳川家光兵法指南役となり、
以後も代々指南役を含めたようで、
1万石の小藩ながら幕閣で重きを成します。

訪問時はあいにくの雨でした。

史跡公園」。
柳生藩の藩庁は柳生陣屋
現在は史跡公園として整備されています。
宗矩がこの地に陣屋を設置し、
3代柳生宗冬が増築していますが、
火災によって陣屋は全焼してしまい、
以後は仮設の建物のままだったという。
定府大名の為に藩主御国入りは無く、
陣屋は領地の行政を行うのみでしたので、
御殿は必要無かったのでしょう。


柳生陣屋跡」碑と、
顔出パネル」。
柳生新陰流のスターといえば、
柳生石舟斎と柳生十兵衛でしょう。
石舟斎は柳生新陰流の創始者で、
自ら編み出した無刀取りで、
新陰流兵法二世の印可状を得ています。
十兵衛は云わずと知れた隻眼の剣豪で、
一昔前は千葉真一の当たり役でした。


屋敷があった辺り。
礎石が残っているようですが、
修復されたものでしょう。
でもこういうのがあれば、
どんな建物か創造し易いですね。

柳生藩は代々指南役を務めていた事から、
佐幕的な指向が強かったようです。
とはいえ所領が大和であった事から、
国許の藩士達は尊攘派が多かったという。
大政奉還王政復古の大号令と時流が動き、
藩主柳生俊益以下江戸詰藩士達は、
国許の柳生へ帰国していますが、
先祖の恩を報いようとする江戸詰藩士達と、
勤皇の国許藩士達の間で軋轢が発生。
また江戸と柳生の習慣の違いも影響し、
やがて両者は対立します。

佐幕派の江戸詰藩士達は、
紫ちりめんを用いる」を合言葉に、
国許藩士達を亜相亜臣として排除を計画。
柳生新陰流では戦闘の後に、
刀についた血糊を拭う為として、
紫ちりめんの布を鍔に括り付けており、
これは暗殺を意味していたという。

しかし習慣が違うとはいえ、
同じ柳生新陰流の国許藩士達は、
江戸詰藩士達が使う合言葉で計画を察知し、
国家老小山田三郎助松田権太夫らは、
先手を打つ事を画策。
上京する藩主に随行する江戸詰藩士らを、
一人ずつ呼び戻しては監禁し、
江戸家老広瀬小太夫を切腹させ、
江戸詰藩士らを拷問しました。
拷問によって8名が死亡(病死と記録)し、
これによって佐幕派は壊滅。
柳生藩は勤皇にまとまっています。
騒動は紫ちりめん騒動と呼ばれています。

【柳生藩】
藩庁:柳生陣屋
藩主家:柳生家
分類:1万石、譜代大名(定府)

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