芳徳寺は柳生家の菩提寺で、
初代藩主柳生宗矩によって開基され、
沢庵宗彭の開山により創建しました。
元々は柳生城のあった場所で、
宗矩が父柳生石舟斎の菩提を弔う為に、
跡地に建立したようです。
「芳徳寺本堂」。
本尊の釈迦三尊像のほか、
沢庵和尚や宗矩の坐像が安置されており、
柳生十兵衛筆の月乃抄も所蔵されいます。
本堂の脇を通って柳生一族の墓所へ。
「柳生家墓所」。
墓所は元々中宮寺にあったようですが、
芳徳寺の創建に伴ってここに改葬され、
以後は歴代墓地となって、
80基余りの墓石が並びます。
墓所はそれほど広くはありません。
しかも全体的に奥側に寄っている感じ。
「西江院殿前但州太守大通宗活大居士」。
初代藩主柳生宗矩の墓。
剣豪として大名となった唯一の人物。
為政者としての才能もあったようで、
徳川幕府の初代惣目付を務めた他、
奉行などの役職もこなしました。
宗矩の[活人剣]の思想は、
その後の江戸時代の太平の世において、
武士が武士を忘れなかった功績は大きい。
幕末期の諸外国からの威嚇に、
日本人が早急に対抗できたのは、
武士階級が戦う事が出来たというのが、
大きな要因のひとつではないでしょうか?
「長岩院殿金甫宗剛大居士」。
2代当主柳生三厳の墓。
隻眼の剣豪柳生十兵衛として知られており、
3代将軍徳川家光の小姓でしたが、
家光の勘気に触れて蟄居となり、
11年も江戸を離れていました。
この間に兵法の研鑽に明け暮れてたとされ、
伝説では武者修行をしていたとも。
宗矩死後は遺言によって所領が分けられ、
三厳は8300石を相続し、
弟の宗冬に4000石が与えられます。
1万石を下回った為に柳生藩は消滅し、
三厳が急死した事により断絶しますが、
弟宗冬が一旦4000石を幕府に返上し、
三厳の所領を継ぎました。
後に宗冬は加増によって大名となり、
柳生藩は復活しています。
歴代の墓が揃っていますが、
後期の藩主を紹介致します。
「大機院殿前備州刺史智峯紹転大居士」。
10代藩主柳生俊章の墓(左)と、
「陽徳院殿前但州刺史剛巌宗健大居士」。
12代藩主柳生俊順の墓(右)。
「大源院殿備州刺史天真紹性居士」。
11代藩主柳生俊能の墓。
後期の藩主墓は10~12代とあるものの、
肝心の幕末の藩主柳生俊益の墓は無し。
練馬区広徳寺の柳生家墓所にあるようです。
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